かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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実際に読んでみた、バカの壁

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先日「題名から想像する、バカの壁」という記事を書きました。

読んでない本に対して、題名だけで中身を想像してしまおうという無茶苦茶なものです。

上記の要約としては

バカの壁でいうバカとは、

>先入観により相手の言葉を受け取ることが下手な人の事である。

>先入観で物事を受け取ってしまい

>「現状は自分の仮説であり、適宜、事実を確認し検証し、

>再度仮説を立てる」という当たり前の事実を見失っている。

>そのため、事実をそのまま受け取ることを拒否し

>正当な判断をすることができなくなっている。

>先入観も、仮説を検証することを怠ることも、

>誰にでも起こりうることであり、、誰もがバカになる可能性がある。

というものでした。

 

さっそく読んでみたので感想を書きたいと思います。

 

もう、まえがきで答え的なものは書いてらっしゃいます。

我々は自分の脳に入ってくる事しか理解できない、学問が最終的に突き当たる壁は自分の脳だ。

 

そして第一章。バカの壁とは何か。

著者はわかっていること、知識と常識の違いについて語ります。

「しっている」「わかっている」これがつまり物事を真摯に見つめる際の障壁となる、バカの壁である、と。

言葉を選び丁寧に説明してもわかってもらえないことがあるのは実感としてわかります。

常識って怖いです。常識とは、考えなくても済む相手との前提条件だと私は考えています。これは、何らかのコミュニケーションで共感を覚え相手との親密性が増すきっかけとなるだけでなく、自身の常識が通用しない外部との人間に対し敵対心を抱くきっかけにもなります。

自分の常識が、当たり前のものだと妄信してしまっている人が、意外と多いのです。

例えば、私たちは普通、人を殺しません。しかし、世の中にはカニバリズムが日常という世界もあります。そこでは小集団ごとの争いが頻繁で、強い敵を殺したら相手の強さを自分に取り込むという意味で食べたり、食料がないからしょうがなく人を食べたりするわけです。

こうやって一つのロジックが説明されれば、「その状況じゃぁ、そういう考えもアリかなぁ」と思う方が大半だと思います。

しかし、理解はしても納得はできない。

それが常識の力です。両親や社会から、明示的に暗黙的に教育された結果です。

考えなくてもいい、その社会で生きていくのに必要なルールが常識だと私は考えています。その強さ故に、人は自分の常識外の事にひどく反発します。

常識とはイデオロギーか?

著者は科学という視点から、整理します。

 

第二章では脳の中の係数という話をします。

y=ax」という、あまりにも簡単な数式を使っての話です。

aに何が来るのかが問題なのですね。

yがアウトプット、xはインプットです。

人を一つの処理系としたときに、aが何になるかによって、その反応は変わる。

先日の「知識と思考の定義をかんがえた」でいうところの、「獲得スキル」です。

出産に関するビデオを見て、女子生徒は様々な気づきを得、男子生徒は無反応とまではいかなくとも、相対的に何も感じなかった。

人は、置かれた状況や今までの経験、対象に応じてaが変わるのですね。

aが大きければそれはいいのかというと、そうではありません。

その説明もなされます。(私は危険だと思っています)

 

第三章、個性を伸ばせ、という言葉に対するです。

ドラゴン桜という漫画をご存知でしょうか?成績が悪い二人の生徒が東大を目指すことを通じて、成績を上げる方法を喝破していく物語です。

その中でまずは型を作れという話があります。私流に言えば、守破離です。

筆者は共通了解と強制了解という言葉を用い、世の中の矛盾を指摘します。

そして個性とは初めから与えられたものなのだ、と説きます。

現在いる一人一人がすでに、個性的であるという点は納得がいくのですが、著者の「私たちにはもともと与えられているものしかない」という点は納得がいきません。

個性的な人間として例示されている、イチローや松井、中田英寿だって、元から才能はあったのでしょうがそれを現実化すべく努力をしたはずです。そして彼らですら、まだ使われていない才能があるかもしれない。(もちろん猛練習しているでしょうし、それが発現するとも限らないでしょう)著者も努力があるのは当然と認めるところではありますが、努力する前に天分があるというのは、ちょっと。

ロマンに浸る気はないですし、「みんな天才だ、今才能は眠っているだけだ!」なんて甘い言葉をいうつもりもないのですが、努力するから天分が実現する、元から与えられているものしかないというのはニヒリズムにすぎると思うのです。

と、同時に、ある程度のあきらめも必要なのかとも思います。

世の中には天才はいまして、「あぁ、こいつには敵わない」と思ったことは限りなくあります。一方で、そのような競争の場所に出ることがないゆえに、自分は有能であると根拠のない自信を携えて幸せに生きる人もいるのです。

もしかすると、ある程度割り切った方が幸せなことはあるのかもしれません。

(この段落、いろいろと思うところがあり、書いたり消したりを繰り返しています。ねじれていますがご容赦ください。それだけ双方のコンフリクトがあるということでして。)

 

第四章、変わること、変わらないことについての話です。

著者は情報と個性の性質について説明し、昔は万物は流転するという前提があったと古典を例に出し、示します。君子豹変す、の用例からも、変わることに関する説明をします。(参照;進化と変化と適応)変わるものと変わらないもの、そして自己同一性。考えると相当こんがらがる話です。深入りしないことをお勧めします。

ショッキングな見出しが目に飛び込みます。「知る」と「死ぬ」。

ここで筆者は、知ることがどういうことなのか、非常に平易な文章でわかりやすい例をとり説きます。

サトラレ」という漫画がありまして。自分の考えが周囲に漏れてしまうが何らかのすごい才能を持つ病気を持つ人たちのギャグマンガです。その世界には自分はサトラレではないにもかかわらず被害妄想を持ってしまう人がいる。自分の才能はこんな田舎じゃ活かせない。そんな人が本物のサトラレに出会う。彼はその田舎でみずみずしい感性から素晴らしい才能を発揮する。見ているものは同じでも受け取るものは大きく違う。当然アウトプットも違う。被害妄想を持ってしまっていた人は自分を知る。

何かを知る、それで自分がガラッと変わる。

同じインプットがあっても、受け取る情報量が変わり処理が変わる。

そんな話が書かれてあります。

情報が不変のものなのか、変化するものなのか、それを「武士に二言はない」という言葉や「ケニアの歌」から考え、世の中の「あべこべの状態」について言及します。人は変わるはずのものだったのに、「俺は不変の情報だ」と、あべこべの状態。それが前提になり常識になる。それを指摘したうえで、共通認識のタイムラグ(私の解釈では新しい概念が常識になるまでのタイムラグ)をモーツァルトを例にとり説明します。

ここから話は(私から見て)ダイナミックに展開していきます。

自己同一性の話から、集合名詞としてのりんご、イデアの存在。そこから「a」と「the」の話と、助詞(「が」か、「は」か)の話。神と偶像、超人の話。一つ一つを説明すると、本文のコピーになってしまいます。ここで言っていることのまとめとしては、人間はその脳の処理により、大きく意識が発達した。自己同一性の世界はいわば言葉遊び、論理構造の話である。人間という種から見るとその脳を持っていう事がすなわち個性である。(第三章の話ですね)

この章に関しては理解はできている(と思う)ものの、私の考えを挟む余地がなく、要約になってしまいました。ごめんなさい。

丁寧に理解していると大変なので、すっ飛ばした方がいいのかも、です。

 

第五章。前述の「あべこべ現象」について、無意識と身体と共同体の視点から話を進めます。言い方を変えれば「脳の中」「個体」「社会」となります。

著者は、現代の人について、まず身体を忘れていると指摘します。

現代では入力を重視して、出力を忘れやすい。我々人間は学習する。アウトプットとインプットを繰り返す動物で、その流れが悪いことは不自然である。かつて、軍隊があった日本では身体を意識せざるを得なかった(身体的な学習を意識)しかし、都市化が進んだ現在では身体学習が薄れ、新興宗教での「体験」を新鮮なものと捉えてしまう。

また、共同体が壊れていると指摘します。

中で共通了解という言葉が出てきます。私は当該コミュニティにおける常識と理解しました。

共同体が小さくまとまってしまい、それぞれが利己主義に走っている状況をまとめ、理想の共同体、共同体の役割として個人の人生の意味の発現場所であるといいます。人間は自分の外でしか居場所はない。ここに私は独居老人やひきこもりの人の閉塞感を見ます。絶望を死に至る病といったのはキルケゴールでしたか。私は孤独こそ死に至る病だと思います。ここで私の言う死とは、生きていない事です。身体的な死亡ではありません。

無意識というもの、その重要性が都市化によって薄れフロイトが発見(再発見ではないか?)したことを指摘します。現代人の無意識は無駄である(私の解釈)という観念から無意識を自分とは別物と切り離してしまい、自分の中に無意識があることを受け入れていない(ように筆者には見える)。この無意識を悩みと言い換え、それも含めて自分だと受け入れることを説きます。

我々は筆者の言う「脳化社会」に生きているのだそうです。上記で順に説明したように、身体を忘れ、共同体を忘れ、無意識を忘れている。この状況に生まれた我々からすると何とも新奇な考えになるのですが、これはもう、新しい、そういう世界があるのだと理解するほかないと思います。若い方、納得できます?今、あなたが生きてきた社会は本当はあるべき社会じゃないんだと言われて。

私は納得できませんが、理解はしたいな、と思います。

筆者は都市化が問題の土台であると説きます。本文で書かれていることの意味合い、筆者がどう考えているかの論理はわかります。日本語読めますので。

しかし、私は納得できかねます。

豊かになる、結構ではないですか。遊ぶ時間ができた、良いことです。文化は暇から生まれるんです。ホームレスが糖尿病になる、それほど働かなくても食っていける(病気は豊かとはいえませんが)。私は働くことの意味合いが変わってきているのではないかと考えるのです。

 

第六章では、バカの脳というこれまた問題が出てきそうなタイトルがつけられています。

筆者は頭の良しあしを社会適応性でしか測れないとし、社会的に頭が良いとはバランスが取れていて社会適応がいろいろな局面でできるという事だといいます。逆に一つの事に秀でている天才は社会的に迷惑な人だということは珍しいケースではないといいます。

事実としてはそうなのでしょうが、あるべき社会・集団ではないでしょう?むしろ、一つの事に秀でた各種の天才が集まり、有機的に結合したとき大きな仕事はできるはずです。大きな強みを身に着けるためには弱みを克服するコストを天秤にかけなければなりません。(参考;チームとはチーム内で働くための基礎能力があるのであれば、後は得意分野にステータスを全振りできる方が、大きなプロジェクトに参加できる可能性がある。と、私は思うのです。

ニューラルネットと軸索の話は割愛。

ピカソイチローを例に出し、天才は、凡人が1,2,3,4と手順を踏むところを一気に1→4とする、と話します。がしかし、機能としての脳はあまり変わらない。一方で「キレる」事に対しては実験で、現代の子供は昔の子供より我慢ができなくなっている、と言います。そこから犯罪者の脳、無気力な子どもの脳、オタクの脳と話が流れます。

結局のところ、バカの脳というタイトルながら、バカを計測するのは難しいという内容だと私は理解しました。なんとも。

AI絡みで、いろんな人のタイプ別の脳を分析するのは良いかもしれませんし、前頭葉機能が活性化すれば無気力じゃなくなるのであれば、活性化させる、もしくは抑制された原因を見つけ出すのは良いことだと思います。

 

第七章では教育の怪しさ、著者は嘆きます。

教師が職人でなくサラリーマンになってしまった、給料の出所に忠実な人になってしまい、仕事に忠実な人でなくなってしまった。一方で子供は実体験が乏しい

これも筆者の言う「都市化」の影響なのでしょうか。

時代の変化だと私は思うのですが、体験が重要であることに依存は全くありません。わたしも、時間があれば旅行に行きたいですし。

子どもの脳との教育を研究しなければならないとし、この章は具体例を紹介して終わりです。

筆者が脳科学専門であるため、シナプスだのニューラルネットワークが出てくるのは当然です。今後、どうあるべきなのでしょうか?

教師はサラリーマンではいけないのでしょうか?今でも相当な負担がニュースであらわになっています。今までうちに込められていた我慢が顕在化しているのです。サラリーマンとして適度にやる、だれがそれを責められるでしょうか?

私たちができるとすれば子供に体験をする機会を与える。自分で意識的に体験をする。仮想通貨をいじっているのであれば、実際に使ってみる。DEXが交流するというのであれば、どこでもいい、それを使ってみることで手数料の高さと速度の遅さを感じてみる。そういう事ではないのでしょうか?(参考;日曜の夜にゾンビと戯れてサザエさんが怖くなくなった話

 

第八章、一元論を超えて。

まず、一元論とは何でしょう?一元論とは、一つの理屈ですべてを説明しようという方法です。それを超えるのですからいろいろな視点で物事をみるべし、という話になるのでしょうか?

筆者は作業の効率化から生じた余剰資源の使い道を真剣に考えるべきだといいます。人間をどのような状態にすれば一番幸せか、それを考えなくてはいけないのは政治なのだそうです。学者は人間がどこまで利口かを考える、政治は人間がどこまでおバカなのかを考える。政治家はそうやって人間を見抜き、動かしているのだそうです。欲をほどほどにしなくてはならない。その中で経済の例では岩井先生の「貨幣論」を例に出し、一エネルギー単位が一基本貨幣単位と考えられるのではないか?と言います。これはあり得る話だと思っていて、兌換券ですので実物の裏付けが必要です。実際に使った電力を価値(?)として仮想通貨の価値とするのとは意味合いが異なるのです。(参考:PoWのコインだけが貨幣になりうるのか、考えた)その兌換券が今何かと交換できるという話で、その兌換券がどの程度のコストでできたのかという話ではありません。半減期を例に費用の逓増を謳っても、当該仮想通貨がそもそも流通しなければ、コミュニティに信用されなければ貨幣になりえないわけです。信用されるには電気代以外のコストが必要です。

話がそれました。

筆者はバカの壁をここで再度出してきます。一元論に起因している。そしてその根本は自分は変わらないという根拠のない思い込みである。一元論の方が楽で思考停止状態が一番楽だから。一神教ではない我々(日本人、という事でしょう)であれば、人間であればこうだろう?という普遍的な原理を提示できるのではないか?

そうして筆者は筆をおきます。

 

バカの壁は本として、考えていた以上に複雑で重厚な本でした。

最初に、バカの壁とは個人の意識の問題として語られました。都市化とともに歪んできた「あべこべ現象」に対し、体験が必要であること、そして一元論ではなく、「人間であればこうだろう」という普遍的な原理があるのでは?とします。

 

私が考えられたのは、第一章、第二章の半部くらい?でした。

都市化とともに進む問題については考えられておらず、しかし一方で本当に問題なのかとも思うのです。豊かな世界、暇がある世界、いいではないですか。問題なのは孤独、そしてそれに伴う絶望。それを解決できるのであれば素晴らしいことです。

筆者の言う「人間ならばこうだろう」、ピンときません。

話してわかる人だけじゃないのですよね?

カニバリズムの相手、例えば「愛する人を食べるのが最高の愛の形」としている文化の人(が居たとして)と愛をはぐくむ気にはなれないのです。

「人間ならばこうだろう」が普遍的な原理になり得るとは思えませんでした。

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