流行り言葉で「思考停止」というものがあります。
「ちょっと考えれば疑問を頂くでしょ~、なんでそんな結論で合意しちゃってるの~、しんじっれない。」
ちょっとマウントをとった感じで、自分の意見がより深い考察に基づいたものだということを示すために、もしくは相手の嗜好が浅慮であることを示すために、添えられるようです。
嫌味な言い方をすれば、知性を前面に出したいという知識人、もしくは、学はないが頭の回転や本質をとらえる能力は高いと思いたい人に多く見られる言葉です。
一方で
この、思考停止ですが、別の言葉で、普段の生活において日常的にみることができるのです。
それは常識です。常識を身に着けさせるしつけです。
例えば、お金の話をするのは行儀が悪い。
やや古い、日本の慣習です。最近はそうではないと思いますが。
別の極端な例を挙げると、人を殺してはいけない、という常識です。
世界一般で大きくタブーとされる行為ですが、カニバリズムの多様性を否定する考えとも言えます。
微妙な例として、人は苦手なものにかじりつくべし、という常識があります。
いえ、正確には常識とされるコミュニティがある、というべきでしょう。
より自由なコミュニティでは、苦手なことはある程度頑張ってそれでもだめならコストは自分の強みに払えばいい、そんな常識があるはずです。
なぜ人を殺してはいけないの?
そんな子どもの素朴な疑問に、順序良く納得できるように説明できる大人は少ないです。
だからこそ、常識を教えます。よく説明できないけれど、社会性を持った構成員になるために身に着けておかねばならない常識だから。
「○○ちゃんは、自分がされると嫌でしょ?自分がされて嫌なことは人にしちゃだめよ」
一見、合っているようで、微妙に論点をずらしています。
自分は努力をしないけれど、自分の子供には努力を強要する親は存在するからです。
母親「○○ちゃん、もっと努力しないといけないじゃない!」
こども「じゃぁ、あなたは主婦として、努力をしているの?」
母親「私のことはいいの。あなたのために言ってあげているの」
努力するのを常識としてしつけるのであれば、自分が努力するのが前提でしょう?
この母親は「自分が親であれば子供にいくらでも理想を押し付けてよい」という常識に囚われて、思考停止しています。
人間が社会生活を営む上で、構成員の合意としての常識は必要です。
しかし、そういうルールは決めた人に都合よく作られ、改変されることに注意せねばなりません。
そして常識は強い力でコミュニティ構成員にそれを守ることを強制します。
質が悪いことに、常識を守ることは本質的に思考停止であるにもかかわらず、前者は善で後者は悪に聞こえます。
本質に何があるのか、気をつけねばなりません。
流行り言葉に流されてはいけないと思います。
それを使う人は何を意図しているのかが重要です。
それにしても、思考停止を謳う人が、思考停止という言葉を使うことに対して思考停止ているのは、皮肉です。