かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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いい情報の評価を、文脈の観点から考えた

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私は、steemitやALISにて、ブロックチェーン上にブログを乗せ、ブログの評価として仮想通貨をもらうというプロジェクトに興味があります。

そのうえで欠かせない概念として、良い情報とは何だろう?という点があります。

いい情報とは、それを担保するには何が必要かをかんがえた」では仕組みとして、読み手・書き手双方の細かなカテゴリわけ(またはタグ付け)が必須であり、それぞれのカテゴリの中で評価は適切にできるし、有効性も高まると書きました。

詠み人知らずについて考えた」では、書き手のブランドに左右されない、文章の価値を評価する評価者の力量が問題となる、と書きました。

 

今回は、文脈という観点から、良い情報を考えたいと思います。

 

文脈は、ここでは、問題となる文章に至るまでの流れ、という意味合いにします。

Aさんは有名ブロガーで、今までいろいろな記事を書いてきています。そのうえで本日新しい記事を書きました。「〇=△である」それはとても新しい視点からのアイデアで読む人をうならせます。

一方で

Bさんは新人ブロガーで、たまたま今回記事を書きました。テーマは同じです。書いた結論も同じで「〇=△である」

さて、ここで私は両者を同じ程度に素晴らしいものと評価できるでしょうか?すべきでしょうか?

 

現状の私の結論は「Bさんがその結論に至ったプロセスをどこまで書いたかに依る」というものです。

 

例えば、

Bさんが本当に結論だけを書いたのでしたら、Aさんのブログを読んでアイデアを盗用したのでは?と疑う人が出てくるのも仕方がありません。

Aさんは今までの実績があるからこそ、読み手はその結論に至ったプロセスを補完できるのかもしれません。

長くAさんのブログを読んでいる方の中にはAさんの思考プロセス、考えの変遷を知っており、だからこそ「〇=△である」という結論に高評価をする方もいるはずです。

一方で

Bさんが「〇=△である」という結論に至るプロセスを丁寧に解説しているのであれば、それはAさんと同等の評価をされてしかるべきです。

この場合、読み手の力量が問われるはずです。

 

一つの記事の中での、結論に至る文脈(文章の連鎖)。

当該記事の結論に至る、ブログの中での文脈(記事の連鎖)。

双方で、結論に至るプロセスの説明は可能です。

 

皆さんお気づきの通り、問題となるのは、この場合Bさんがどこまで克明にプロセスを説明しているか、その程度です。

これが、コミュニティや時世によって流動的にならざるを得ないので、「〇=△である」という結論の価値は評価者に委ねる(実質的にはAさんが高評価を得るでしょう。アクセス数の問題がありますから)運用になるのが消極的な結論になると考えます。

 

なにか、これ!、という解決策が浮かんでも良さそうなのですが。残念。

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