かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

?

思考停止の効用について考えた

f:id:ton96O:20180422121326j:plain

何回か書いた覚えのある話題ですが、思考停止の効用について考えます。

 

人は「考える事が大切だ」とかなんとか、自己啓発本やなんかで目にし、感銘を受け、決意を新たにします。

一方で、それは三日坊主にもならなかったり、習慣として定着しません。

自己啓発本で同じテーマの作品が出版され続ける理由です。

 

これは、人間が本来有している性質が関連していると思うのです。

考えるという行為は大仕事なので、なるべく考えないように、コストが低く生きていく。

洋の東西を問わず、時代を問わず、それが人間の性質だと思うのです。

 

人間は、宗教をもち、信条を持ちます。そして人間は社会的な生き物であり、一人ではなかなか生きていけない生き物なので、他者とのコミュニケーションを円滑にするために、その社会(日常的な行為が反復的継続的に行われる集団内、とでもご理解ください)での常識を教育されます。

 

上記はごくごく普通の光景で、当たり前の行為のように思えます。

宗教というのは日本人にとってメッセージ性が強過ぎる単語だったとしても、「お天道様はみてるんだよ」なんて言葉は聞いたことがあるかと思います。

孔子を知らなくとも「自分がされて嫌なことは、人にしちゃだめでしょ」としつけされた人は多いはずです。

これらが、常識として「考えなくてもわかるし、わかってもらえる背景」を作り出します。

そしてその常識は利用されるたびに固定化され、それ自体を強くし、人と人の結びつきを強くします。

 

儀礼的な常識などは、まさにその性質を色濃く反映されていて、手順を間違えるだけで面目をつぶされたりもします。

戦国時代に、茶道が取り入れられてのも、千利休が台頭したのも、この要因が多少なりとも絡んできそうです。

同じくらいの実力があればトップの人間はどちらを指名しようか迷います。もしくは、指名する人は決まっていて、その人事を他の人にどう納得させるのかを迷います。

そこで全く別の角度から、(この場合茶の湯という文化的・教養の側面)判断する力を認められた人が、AさんとBさんではAさんの方が教養が高いと判断するとします。

そうすると、皆、「AとBでは同じくらいの実力だと感じていたが、教養に違いがあることが分かった、であれば教養がある方が、難しい仕事にふさわしい」と、納得のしたのではないか、と。

納得しない場合ももちろんあるでしょうが。

 

話を戻します。

その人が生きていくために必要な、他者とのやり取りに必要な常識

この教育をどうとらえるか、です。

ここに、思考停止の効用があると考えています。

教育や、しつけは、「これは考えなくていいよ、こういうものだから疑うな」という事だと考えます。

そこに、理屈や理由が絡むことは多いですが、突き詰めていくと、誰かの意図が見え隠れする黒いものになります。

カニバリズムは、われわれ日本人からすると受け入れがたい文化・常識ですが、それが受け入れられている地域ではそれなりの、例えば食べ物が極端に少ないだとか、戦闘が多い地域で、力の強いあいつの力を自分に取り込む、なんていう文化的な背景があったりします。誰かの意図云々は、王権神授説やカースト制度士農工商やエタヒニンあたりを例示するだけで十分かと思います。)

いちいち考えていたらとても非効率なのです。常識というのは脊髄にまで染みつかせた方が良い。

(この記事を読んで、「常識を疑わなくてはならない」と考えている方も、自分が常識と考えている事柄を、いちいち突っかかって質問されるとウザいと感じるでしょう?)

大事なのは他者とのつながりの道具としてであって、それ自体が客観的に正しいかどうかは、そこまで大きなポイントとではないのです。

 

人間は、その性質上、なるべく考えないように生きる動物です。

さらに、しつけや教育という名目で常識を叩き込まれます。

これによって、社会生活が円滑に行えるようになるのです。

多くの常識は他者との協調を目標とします。

個別ばらばらに常識を作られても、

社会も、そしてそこに生きるその人本人も困るのです。

 

「お前、それは思考停止だろ!」なんて言ってる人も、

「何もかも考えなくてはならないという考えに対して思考停止」しているはずです。

(自己矛盾で結構かっこ悪いです。さらに、その人が本当に何もかも考えを巡らせているとそうでもなく、指摘されると「それは常識だろ!」と。めちゃくちゃです。)

思考停止はそれなりに合理的な行動です。

人を攻撃するための道具じゃありません。

?