先日
こちらの記事を書きました。
Coinbaseという素晴らしい企業の意思決定法がまとめられたブログ記事を元に、意思決定法を考えるというものでした。
最終的な結論は
特効薬はないので、皆で一生懸命になるしかありません。
反対意見が通ってもスねずに仕事しましょう。
情報の共有をちゃんとしましょう。
というところに落ち着きます。
一応それで一つの記事として完結させたのですが、どうも私には気持ち悪さが残りました。
原文;How we make decisions at Coinbase – Brian Armstrong – Medium
における「People seek the truth」と「People seek to be right」の違いです。
これは序盤における良い意思決定と悪い意思決定の違いとして挙げられています。
先日の記事では
好意的に解釈すると、真実は絶対的なものであり、正しいというのは相対的なものなので、悪い意思決定は手に入らないものを求めて、時間を浪費する、と言いたいのかもしれません。
と書き、人間と自然の接し方を例に挙げ、一応の具体例とさせていただきました。
過去記事でも言った通り、イマイチだと思います。
考え続けて、なんとなく分かった気がします。
ここで自分の考えを書き留めておきます。
なので、この記事は「意思決定法について考えた~補足~」や「続・意思決定法について考えた」と言ってもいい内容です。
表題の件、今回問題にしている件は
良い意思決定において、人々は真実を求め
悪い意思決定において、人々は正しくあろうとする
と邦訳できるかと思います。
では、これが具体的にはどういうことなのか。
常識、という概念を使いつつ説明したいと思います。
辞書で調べたりググったりはしていません。
常識は、ここでは、問題となるコミュニティにおいて参加者が前提としている知識や価値観、考え方とします。
その集団において、議論するまでもなく、全員が前提としている概念である、と。
正しいというのはおそらく、この常識という枠に収まる事だと思うのです。
例えば、私たちは現在、人を殺してはいけない、というモラルを持っています。
そりゃ、憎い人はいますでしょう。でも、実際に行動に起こす人は稀です。
そういう人は殺人者として法に裁かれます。
現在の我々は、殺人を行わない、という正しい人であろうとします。
では、江戸時代であったらどうか、もっと昔、戦国時代であったならばどうなのか?
果ては飢饉であったならどうなのか?
常識はいともたやすく崩壊し、「正しい」事は「正しかった」事に変わるのではないかと思うのです。
いいかえれば、「正しくあろうとする事」は現在の常識に縛られていることであり、将来の成功を約束されることではありません。
小さな成功は正しくあろうとすることで得られるでしょう、しかし、大きな成功は、きっと、常識から外れ、本質・真実をもとめ、時流に乗ることで得られるように思います。
時流に乗れるかどうかは時の運です。
外部環境に依ります。
コントロールできるのは、常識に縛られるか、それとも本質を見極めようとするか、です。
それがどうやら、良い意思決定の根幹部分にあるように思うのです。
よかった、正しさと真実、ずっと引っかかっていたのですがすっきりしました。
♪~
真実?正しさ?適切?後で考える。
— ton (@ton960) June 5, 2018
Lord of the fliesは内容を知らないときっとぴんと来ない。
納得感?目標を決める事で、そこに至る経緯がきっと論点。
原文も?
“Coinbase式、最強の意思決定法” by @NestHongo https://t.co/xzwWsDmibF
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