かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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桐のタンスに見る常識の話

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「常識」をググると「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」と出てきました。

ふむ。

 

ラーメンズというお笑いコンビがいまして。

きっと今はあまりTVで見ることはないでしょう。活躍の舞台を演劇に移しているようです。
彼らのコントの一つに、「風と桶の関係に関する考察」というものがあります。

そのセリフに「良いタンスは一つ棚を閉めれば他が開く」というものがあります。

この事例自体は真実「そう」で、密閉性を技術によって実現した結果、そのような現象が起こるのだそうです。

密閉性を高めることで防虫性と防湿性を維持できるのですね。

なかでも桐のタンスはタンニンを含み、防虫性が高いので、高級なタンスの代名詞となっているとのことです。

 

さて、この高級タンスなのですが、私にとっては使いずらいものでしかありません。

高級タンスが高級たる理屈はわかりますし、高級タンスに価値を感じている方は、一つ閉めて他がにょきっと出てくるところすら、「おお、高級な証拠であるな」と価値を感じるのでしょう。

しかし、私からすると、防虫剤や脱湿材はいくらでも売っているのでそれを入れておけばいいじゃないの、と思うわけです。

過剰な密閉性はいらないのです。

 

私はここに「価値は利用者が決める」という点を改めて確認します。

 

私のような人からすると、安くて便利な箪笥の方が良いでしょうし、

高級ダンスがなぜ高級なのかを理解し、そこに賛成する人は桐のタンスの方が良いでしょう。

原価がかかっているから高級なわけでもありませんし、人が言うから高級なわけでもありません。

自分がそこに価値を感じるかどうかが価値の一つなのだろうなぁと思うわけです。

もちろん、ここでいう「自分が感じる価値」の一つに「高級品を高級と言っている人たちの仲間に入ることができるから」というのも。立派な一つの価値だと思います。

 

ここで私が重要だなぁと思う点が、高級タンスに価値を見出すか否かのグループが分かれていて、たまにそれがかち合うときがある点です。

そのときお互いは常識が違うわけで、そうなるとお互いを「わかっていない」と軽視しがちです。

今ここで高級タンスというわかりやすい例を出していますが、もっと些細な、私が例に出せないような、些細な事だと「常識外れ」になるのではないでしょうか?

 

人は、その生態学的な機能上、グループ分けを無意識のうちに行うそうです。

(そのグループ分けの結果は、人により違います。境目例外閾値が違います)

例えば日本人と、金髪碧眼のイギリス人であれば、常識外れということが出る機会もあまりないでしょう。文化の違い、という言葉で済まされそうです。

しかし、日本人同士なら、おそらく、ちょっとした事が「常識をわかっていない」「無礼である」として争いのタネになるのではないでしょうか?

大きく違う者同士であれば、常識の違いが問題になることは少なく

同質であることが期待される者同士であれば、少しの違いが常識の違いとして問題になる。

ちょっとしたパラドックスを感じます。

 

マウントという言葉が使われるようになってどの程度たったでしょう。

それなりに使われているようなので、「自慢話」などの元の言葉に置き換えなおす必要もなさそうです。そしてそれは、実際にマウントをしていること、されていると感じる事が多い事を表します。

人間はマウントをする動物です。

(逆に「私はマウントをしない」なんて人は、私は信用できません。)

 

常識とは言うけれど、それは特定の集団でしか成り立たないものであったり、むしろ特定の集団の中でしか成り立たないからこそ、価値がある物のようです。

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