「希少資源だったらニュメレールになる」というわけではないと思いますが。
物差しとなる財の事をニュメレールと呼びます。
ここでいう物差しとは、商品の値段がそれの量で表される、という事です。
なので貨幣はニュメレール財です。
仮想通貨ニュースでもたびたび取り上げていますね。
今回の記事は、ニュメレールについて書きます。
本当に貨幣がニュメレールでいいの?
という記事です。
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冒頭の言を受けて。
まずはニュメレールとしての仮想通貨、という話をします。
結構ボロクソに言われています。
仮想通貨に価値測定機能があるとかないとかよりも、価値保存の観点から何か言われることが多いようです。
2018年8月、仮想通貨は暴落しています。
「ほら見たことか」と。
「100万円の仮想通貨が今は20円になったではないか」と。
「価値保存できておらんわ!」と。
例えば1BTCはFIAT建てで価格が変わっても、1BTCのままなんです。その意味では価値を保存しています。
そう考えると、BTCがBTCとして使うことができる場所が大事なんです、
BTCがBTCとして使うことができて、それで生活が回るのでしたら、価値保存は完璧にできてます。
説明を加えます。
私たちは円(JPY)の世界で生活しています、その世界から出ない人もいるかもしれません。
そう考えると、1円が何米ドルであろうと知ったこっちゃありません。
(実際には為替の問題なので、表記は一般的に1米ドルN円です。
また、実際には輸出入があるので知ったこっちゃ、あります。)
なのでBTCはBTCのままで価値の保存を行えているし、数量が増えるのかというと2100万枚まで、と予め決まっているので、フェアです。
むしろ、貨幣購買力が遮二無二低下しないという点では非常に良い。
仮想通貨が通貨として利用されるには、何らかの使途がある事がまず先で、使うだけでなく稼ぐことができ(稼いで使うというサイクル)、それによって価値保存ができているため、より使われる好循環が始まります。受け入れ先、使える場所がますます増えます。
ここで置いてけぼりになっているのは、価値尺度機能、本記事でテーマにしているニュメレールになれるのかという点です。
価値尺度になっている、つまり、商品がBTC建てで値付けされている場合、それはきっと、BTCの使途が多い状況を意味すると思うので、とても良い事のはずです。
しかし、現実的に、今の社会で経済活動・商行為を行っている我々は、BTCだけをもらっても困ることが多いです。
BTCをBTCとして、仕入れや日常生活には、多分使えないですよね?
BTCとして使えるとしても、それは、「円建てで考えるとN円欲しい。N円分のBTCが欲しい」のであって、「○○BTC欲しい」わけじゃありません。
その場合のBTC建ての値付けは、上記の通り、実質的なFIAT建ての値付けなのですね。
これは、既存の社会とBTCの社会の接点・接面の問題だと思うのです。
クリプトエコノミクスの考えを理解すると、腑に落ちるかと思います。
ザックリすぎるほどザックリいうと
新しい価値観や考えで社会をデザインするのがクリプトエコノミクスでした。
これが正しい、という事を大前提に話を進めます。
ということは、その「新しい社会における価値移転媒介財が(あるのであれば)その社会の仮想通貨」となります。ない場合もあります。
という事は、現在の社会で、無理に仮想通貨建てで考えなくても、それはそれで仕方ないという事になります。社会が違いますから。
仮想通貨払いを、(実質的な)円建てではなく仮想通貨建てで行いたい場合は、その仮想通貨の社会が育たなければなりません。
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なるほど、と。
任意の人工社会(デザインされた社会)におけるニュメレール財が仮想通貨なので、本来的には別の社会で、別の仮想通貨を使うことは無理がある。
だからこそ、それを交換する分野は研究対象として意義があるだろうと私は思います。
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で、ですね。
複数、例えばデザインされた社会が、AとB二つあったとします。
それぞれ仮想通貨がある社会で、その積集合に位置する人は、FIATとA仮想通貨とB仮想通貨それぞれを持ちうるのですね。
となると、その人は、いろいろな社会で富を保有しているお金持ちじゃん!とは言えると思うのですが、気がかりな点がありまして。
社会をデザインすることがプラスサムゲームのような印象を与えないかなぁという危惧です。
社会が作られれば作られるほど、富がたくさん現れる、という理屈ですね。
それはそれで一つの理屈だと思うのですが、具体的に、仮想通貨をたくさん持ってればそれで豊かなのかというと別なのだと思うのです。
私の考えではプラスサムゲームではないのです。
「お金持ちは、自分の財産の管理者になる」という言葉があるようでして。
管理者でいたいだけの人はいるんでしょうか?います?
通帳を見てニヤニヤする人はお金を使って増えていく数字で満足感を得ているわけでして、決して管理のための管理をしたいだけの人はいないと思うのです。
管理は仕事です。労働です。
なので、お金は使ってこそだと思うのです。
という事は、複数の社会を総合的に考える事ができる尺度、ニュメレールがあるんじゃないかなぁ?と思うのです。
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お金は、効用をもたらしてくれる財・サービスを得るために必要なものですよね?
物々交換でもいいけれど、多分お金の方が使い勝手が良い。だからお金を持っておくと安心です。
という事は、人が最終的に欲しいのは効用だと思うんです。
手あかのついた言い回しですが、ドリルが欲しい人はドリルそれ自体が欲しいんじゃなくて、ドリルで開ける穴が欲しいんですね。
であれば、お金が欲しい人はお金そのものが欲しいんじゃなくて、満足が欲しいはずです。
その最終目的から考えると、お金も他の人に羨ましがられたり、自己満足に寄与したりと、ニュメレールではないという考え方もあります。
満足を得るため何が必要かというと、私の考えでは時間です。
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正確に言うと、時間には性質があります。「物事を正確に行える冴えた時間」ですとか、「とりあえず、物事を普通程度に行える時間」「受動的な消費には使えるけれど、何かをやるのは無理、エネルギーがない時間」
ここの分類は考えられていないのでノリです。具体例です。
でも、お伝えしたいことは伝わるかなぁと思っています。
お金があっても時間がないと使えないし、いや、使えるけれどその効用を味わえないの方が正確ですね。
一方で、当然、お金がないと時間があっても何もできません。
正確に言えば、自分の幸せを感じ取る能力が高ければお金をかけなくても幸せを得ることはできるので、 その要素も考える必要があります。
しかし、その要素はとても抽象的でかっちりと記述することが難しい。
あえて言うなら「足るを知る」辺りが私のイメージにピッタリくるのですが、今回は宿題とさせてください。
話を戻します。
お金があっても時間がないと、それも、効用を受け取るのに適した以上の質の時間がなければ、十分にそれ(効用)を享受できないのでした。
抽象的な言い方なので、具体的な言い方にします。
10万円のワインを十分に味わうには、やはりそれ相応の雰囲気のレストランで、一緒にいるにふさわしい人と、ゆったりくつろいで、できればそのワインを楽しむのに必要な事前知識(ワインの味わい方はもちろん、ワインの知識、ワインのストーリー等)を持っていて初めて10万円を味わい尽くしたといえると思うのです。
ラッパのみで酔うことができればいいや、というのは道徳の面からお行儀が悪いだけにとどまらず、10万円を味わい尽くせていないという点で損失なのです。
(そこに「10万円のワインをラッパする俺、かっこいい!」みたいな効用もあると思われ、また、それをかっこいいとする人もいるので、それはそれで別の効用があると思います。しかし、長文になるので考慮外とします)
という事はですよ。
一定の効用を与えてくれるのであれば、安い方が多分いいですよね?
消耗品で、すぐにダメになるものは100円ショップのモノを使ったりして。
一定の効用を与えてくれるのであれば、質の高い時間を使わないものが多分いいですよね?
同じだけの知見を得られるのであれば、文章より漫画の方が多分頭に入りやすいように思えます。
(ここでまた、漫画と小説の情報量の違いを指摘する人がいるかもしれませんが、この文章では得られる効用は同じだとしています)
だから、お金がニュメレールになるのではなくて、時間(人生・寿命までの残年数)が最終的な制約条件なのだから、そちらで測った方がいいように思うのです。
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となると、クリプトエコノミクスでデザインされた様々な社会で、富が拡大した人も、実はそれを使える時間は限られている、という事になります。
ビジネスは、最終的にはお金の奪い合いではなく、時間の奪い合いになるのではないかと思うのですね。
なので、中毒性(カジュアルな意味です)が高いものや、消費するのに時間がかからない商品が重要になってくる、と。もしくは自動的に消費している状態です。
中毒性があるものだといろいろと問題が出てくるので、自動的に消費する商品・サービスをデザインするのが多分スマートです。増えてくるんじゃないかなぁと思います。
この商品はいくらいくらです!という情報に加えて「この製品を消費するのに○○分かかります」というものが増えてくるかもしれません。
(ブログで「この記事を読むのにN分」というものがありますね。あれがまさにそうです。余談ですが、あれきっと多めに見積もってます。そして多くの人がその時間よりも少ない時間で読めるので、幸せになれます。素晴らしい)
(ここで、「あえて時間をかけるという楽しみもあるのでは?」という方もいると思います。名声価格でググってください。おかねをニュメレールにした値付けでも同じものがあります。商品は安い方がいいと思われがちですが、宝石やブランド品が安いとそれはそれで得たい効用が得られません。「偽物じゃないか?」と不安になりますし、「このバッグ20万円するんです」「限定品なので入手困難なのです。私はそれを持っている人なんです」と。口には出さなくても、見ればわかる人の前でそれを見せるのがおしゃれというか、示威行為というか。
なので同じように、時間がかかるのが価値になる商品もあると思います。盆栽なんかそうですね。少しずつ育っていくのが良いんだそうです。やったことがないので主観的な感想は言えませんが。)
なので、
クリプトエコノミクスで社会を作る事は、仮想通貨を含むお金の面ではプラスサムゲームですが、時間の面で顧客を獲得するという観点からはゼロサムゲームだと思うのです。
時間を質で区別している点だけはご注意ください。
高い集中力を保っている時間を必要とする商品は、きっとそれだけで競争優位性が低いです。
でも、この記事の内容、皆さんわかってますよねぇ。
一応ですよ、一応。
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