これを書いているのが二月下旬に入ろうかというところ。大学受験真っ盛りです。
受験生の方、受験に運の要素はありますが今までの実力を発揮できますよう。
さて、その中で結構おろそかにされがちな科目が国語、それも現代文なのだと思うのですね。
おろそかにしちゃいけないぞ、という記事を書きます。
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私が高校時代、二年生や卒業生は下級生に対して文章を書き、それで学習ノウハウを継承していくという伝統がありました。大学に入って級友とその話をすると「うちもそうだ」と。一般的なことのようです。
高校一年生の冬だったと思います。私に来年のその文集に乗せるから国語で一文書いてくれと依頼が来ました。
国語は、現代文(論説文+小説)・古文・漢文で構成されますが、後者二つは成績がそこまで良いものではありませんでしたので、現代文について書いてほしいという意図を受け取り、それを書きました。
内容はこのようなものです。
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ドラマや漫画で、英語や数学の先生が受験生に特訓をさせたがる中、何らかのいきさつで国語に重点が置かれることになる。それは全ての土台だからだ。実際、ドラマや漫画では特訓を受けた国語力を元に、英語や数学の力を伸ばしている。
「一見遠回りなことが実は王道である」という点がストーリーとして面白い。一方で、ある程度の納得感が無ければフィクションであろうが成立しないであろう。
納得できるのはなぜか。
小学生の文章題を思い出していただきたい。あれは算数ではあるがその実文章を読み取る力が必要な問題である。
英語であっても和約や要約には国語力が必要である。難関大学では社会科目において記述式の回答が必要である。
実際の試験を通じて、国語力が土台であることを意識的か無意識的かはともかく、皆、知っているのだ。
そもそも、受験勉強の国語で測られるのは、読み・書き・聞き取り・書き取り、その中で一番簡単な「読み」なのだ。
数学ができる人を「要領がいい」「才能がある」ともてはやす雰囲気を感じるし私もそう思う。(誤解が無いように書いておきます。高校二年まで文理が分かれるまで私は数学トップクラスでした。全国模試・○○大学模試で満点を何回かとる位には。文系に進みましたが)
数学の成績で頭の良さがわかるのであれば、国語、それも現代文の成績でわかるのは、頭の悪さである。
私は努力してこの高校に入った。しかし、人の話を誤解する人が思ったより多い。
それは人の話をきちんと理解できないということであり、たまたまこの高校に入学できた人間と認識するほかない。
もちろん、何回か同じことを言ったり、周りの人間は理解できるのに自分だけ理解できない状況から焦って理解に努めるものもいる。
しかし、当然、一番最初に言ったことをそのまま一回で理解できるという姿があるべき姿である。
「数学って将来何の役に立つの?」という人がいる。
それに対する意見は色々とあるが、社会に出てからの有用性を考えるのであれば、現代文で平均点をとれないと社会で役に立てない人間になるように思える。
多くの場合、自分の能力の過信やバイアスによって、文章をゆがめて捉えているのが原因だからだ。
そのような場合、社会での通常コミュニケーションが阻害されるだろう。単なる読みができるという事は、相手の心情をおもんぱかる等行動な技能以前の、当たり前のことを当たり前にできることだと思う。
受験勉強における現代文は最低限のルールとして答えがある。
受験生同士の不公平感をなくすため、文章を区切ってある。文章から読み取れることが答えなのだ。
例えば、夏目漱石の吾輩は猫である。ナレーションは猫がしているという事は皆が知っている。しかし、問題文で抜き出された文章でナレーションはネコだと断じることができないのであれば、それに応じた答え、例えば「人間ではない何か」という答えをしなくてはいけない。
現代文の試験は、文章そのものをちゃんと理解できる能力を測る試験である。
そしてそれは、人が一人で生きていけない現代の人間社会において、相手の言うことを理解できるという極めて実務的な能力である。
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口調は多少マイルドに、こんな意味合いのことを書きました。
こちらにも通じる話です。
というわけで、自分の母国語位はきちんと理解できる大人になったほうがいいなぁと思った次第です。
でもですね。
高校生時代の私の誤算があるんです。
世の中って、結構文章や相手が言っていることを理解できない大人が多くて、さらに、世の中ってそれでそれなりに回ってたりするんです。
せめて自分は理解できる大人でありたいと思います。
ではでは。
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