かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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取り残された人を救う概念が格差を助長する話

金融包摂なんて考え方があります。

今まで金融にアクセスできなかった人たちにその道筋を作ろうという話です。

 

その、格差を是正しようという概念が、かえって格差を助長してしまうという話をします。 

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金融包摂をもっと具体的に説明します。

 

いままでは、銀行に口座すらない人がいたんですね。

当然、信用データが蓄積されません。理由はそれだけではありませんが、結論としてお金を借りることができません。

お金を借りることができれば、何とか生きているという状況から抜け出すことができるかもしれないんです。

 

全ての人が金融を利用できるという考えです。

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 で、

今ですと、銀行口座は持っているけれどスマホは持っている、という人がいまして。

その人たちが使える金融サービスを作るのが金融包摂の具体化になっているっぽいのですね。

 

概念としては全ての人がアクセスできる未来を予定してはいるものの、(当然と言えば当然ですが)全員なんて事はなかなかなくって、救われていく人たちに順番が発生するんです。

 

もうちょっと具体的に説明します。

三人、Aさん、Bさん、Cさんがいて、90点、40点、35点という状況です。

金融包摂自体は、Bさん、Cさん両名を80点くらいにしようという考え方ですが、Bさんしか今のところは80点にできません。

90点、80点、35点という状況になるんです。

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私自身、格差がある世の中であってもチャンスは平等な方が良いと思います。

Cさんにも80点になれるチャンスはあるべきだ、と思うんですね。

 

これを第三国の他人事には、私には思えません。

 

先日 

ton96o.hatenablog.com

こちらを書きました。

 

何度も襲うデジタルデバイドは、うまくいっている人の偶然性を顕在化するんじゃないかな?と思います。

もちろん、「あんなのは努力じゃなくて偶然だ」と酸っぱいぶどうのキツネのようなことを言いたいわけではありません。

今、ここにいること自体が偶然でしかない、としみじみ思うんです。

最新のガジェットを使いこなしたスマート生活を送る若者がおっさんに「なぜこんなこともできないんだ」と言うのは、おっさんが若者に「なぜこんなこともできないんだ」と言っている事と、本質的に、同じです。

 

それができるのも、偶然。

偶然興味をもって、偶然習得できる能力がありその必然として使いこなすことができた。

 

金融包摂で救われた人が、金融包摂で救われなかった人を「なぜこんなこともできないんだ」と言わない未来があると嬉しいです。

 

ではでは

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