かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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民主化という支配の話

「○○の民主化」なんてフレーズをよく耳にするのですね。
そして、それはおおよそ、民主化される=善であることを前提にしているようです。

そんなことはないんじゃないかなぁ?という話をします。 

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特に最近なんですが、 

ton96o.hatenablog.com

つくづく、意思決定者って割に合わないよなぁ、と思うことがありまして。 

 

上記記事は武漢肺炎の対策で日本政府がどう対応するのか、前門後門云々の状況で意思決定をすれば必ず不満が出る、と。
落とし所を探ってそれを決定事項とすることが多い日本人という国民性からすると、それって結構な負担ではないかと思うのです。
意思決定者に直接接する人は「わかっている」人が多いのでしょうが、文句はどうしても目に耳に入るものです。

 

では、文句を言っている人がどこまで意思決定者の立場で考えられているのか?判断できるのか?というと、誰もが疑問に思うと思うのです。

 

これだと権力者の立場に立っているようなので表現を変えます。
国民は権力者の言動を正しく判断できるのか?です。
大事な点はあくまで、客観的な権力者の自己評価とそれ以外の人間の評価に笑って済ませられない差異が存在するだろうという点です。

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武漢肺炎に対する日本国の対応について話を書くつもりはありません。
「意思決定者を評価することについて」書き進めます。

評価というと「褒める」意味で使われることがありますが、ここでいう評価とは「判断」です。ジャッジです。

 

民主化とは民主主義が進んでいく様であり、民主主義とは国民に主権がある事を言うようです。反対は君主制だと思っていたのですが、封建主義や全体主義も対義語に当たるようです。

ここではざっくり、「民主化は、権力が集中しているところから、みんなに権力が分散されること」と考え、話を進めます。

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抽象的な話をするとイメージが湧きずらいので、具体的に民主主義による選挙について考えます。

選挙は民主主義において大事ですね。

私たちの生活の基盤を担う権力者を我々自身が選ぶのです。

先人たちが血や涙を流して手にした権利です。「だから無駄にすまい」という話は感情としては理解できても理屈としては必ずしも成り立ちません。が、そういう権利・自由があるのですから行使させていただきましょう。

 

選挙は、多くが、多数から誰かを選択する行為です。

そこでは、判断が必要です。

信任投票であっても、対象が地位にふさわしいか否かの判断が、やはり必要です。

 

民衆は、国民は、その判断ができるのでしょうか?

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特に専門性の高い、内閣総理大臣最高裁判官なんて、私では判断ができません。
頑張って自分なりに判断しようにも、おそらくですが、情報が足りないはずです。
上記の人たちが扱う情報全てを公にするには、機密性が高すぎます。

 

そうなると、国民は、自分たちが入手でき理解できる情報でしか判断ができません。

 

この状態で何が起きるのか。

情報の操作が行われます。行われるはずです。というか、現状、行われていると私は思います。

 

ならば、民主主義は、情報を操作する力を持っている人が、その操作された情報でしか物事を判断できない人の信任を得ることで、また情報を操作する力を得られるという再帰的な仕組みにも思えます。

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失敗が起きたら何が起きるのか。

主権を持つ国民が選挙で選んだ結果なのだから、国民の自己責任、となるようです。

 

これは、半分その通りで半分違うのではないかと思うのですね。

理想通りに進めば、民主主義の結果は国民の責任でしょう。

しかし、選挙を通して主権の委譲が行われ、結果として権力者を作り出しているわけです。

権力には責任が伴います。伴うはずです。

それが正しいのであれば「国民の自業自得である。衆愚政治衆愚政治だ。」と切って捨てるのも腑に落ちません。権力者には権力者の責任があるはずだからです。

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という話を進めていくと、民主主義は、良識があるっぽい国民を黙らせる手段だと捉えることもできそうです。

権力者は国民様から選挙で民主的に選ばれた存在です。
「私は確かに失敗しが一生懸命やった。みんなで選んだ人が失敗したんだからしょうがない。(国民の誰か、気の弱そうな人を捕まえてきて)それとも、お前、俺の仕事をやってみるか?」と開き直る隙を与えているようにも思えます。
君主制ならそうはいかないわけです。憎むべき相手として王様はボロカスです。

権力者は責任者(今ここで考えた造語です)でもありますから、逃げ道を用意しておくのはそれなりに正しいと思います。
しかし、逃げ道があれば悪用されるのが世の常で。

最終的に権力者を生み出す仕組みは、開き直る隙がある分、君主制と変わらないどころかさらにタチの悪い仕組みになっているかもしれないのです。

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「○○の民主化」というフレーズはキャッチーです。

みんな、自分たちが正常で進化の最先端だと思いたいので、民主主義の世界に生きている私たちは、民主化と聞いて好ましいものと感じるからです。

しかし、民主化は、判断力のない人に判断する権利を与えた仕組みでもあり、判断する力どころか判断する材料すらまともに与えないという運用も可能です。

「権利だから行使しない。なぜなら判断ができないから」というのであれば、他の誰かの一票が重くなるだけです。

 

「民主主義の状況で衆愚政治にならないよう自己研鑽しなければ」という意見には賛成ですが、それは国民側に立っての話です。

権力者の側からすれば、、、、、、どうしたらいいんでしょうねぇ???

 

代案も示さずに非常にお行儀が悪いのですが、ここで私がクリティカルな代案を示すことができるのであれば、世の中はきっともっとサバサバした感じになってるはずです。

 

というわけで、「民主化」は権力者が(実質的に権利を放棄せず)責任を分散させるための道具になり得るので、絶対的な善ではない、ということを指摘するに留めたいと思います。

 

この話、会社組織のガバナンスの話と似ています。
ベンチャー企業や危機的状況にある場合、強力なリーダーがスピーディーに引っ張る体制がおそらく好ましいでしょう。一方で平時(相対的なものですが)においては、合議制が好ましいのだと思われます。
では、企業における合議制、監査役社外取締役がいる状況です、その状況において果たしてどこまで内部牽制が効いた組織が作れているでしょうか?
結構やりたい放題やってるんじゃないですか?
ESGという言葉が今日も紙面を踊っているのはなぜでしょう?
当たり前にガバナンスが効いている事が常識であれば、こうはなりませんよね?
現在がそうなっていないから、目指すべき目標としてESGが声高に叫ばれるんです。

もっと卑近な例を挙げるのであれば、形だけの権限移譲が口にされている企業が挙げられるでしょうか。裁量を与えれば従業員はやる気が出るとかなんとか、都合のいい部分だけをつまみ食いにした実質的な責任の押し付け・賃金上昇を伴わない負担の増加です。

 

民主化は、それを進める権力者の支配方法の一つになり得ます。
権力が分散されること自体は一つの秩序の在り方ですが、ルールメイカーはその仕組みの全貌を知り得ないルールテイカーに責任を押し付けることができ得るからです。

 

ではでは。

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