かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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何を信じるかが人の最後の権利な話

YOUTUBEをたまに見るのですね。

 

特に歴史などの知識系では、VTUBERよりも手軽に作れるのでしょうか、いわゆる「ゆっくり」キャラの動画が多くあるように感じます。

ここ最近、そんな「ゆっくり」を使っているとYOUTBEの動画判定AIによって、収益剥奪されることが多いようです。

つい先日、私がたまたま拝見したチャンネルもその被害を受けていたようで、それが回復したというお祝いの動画を上げていました。

 

その中で、AIによる限界を話されており、AIによるディストピアという話しがありました。

 

それは違うんじゃないかなぁと思うので、そのあたりを話題にします。

 

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まず、YOUTUBEの仕組みを確認します。

YOUTUBEは広告によって収益化されています。運営会社が広告費としてあげた売り上げの一部を、動画作成者に広告費として還元する仕組みです。
だから、広告主が眉をひそめる動画は運営会社としては上げて欲しくもないし、その逆、変な広告会社の広告は高単価であっても載せてほしくないという動画作成者の方もいるでしょう。(金をもらえればどんな広告でもいいですか?そうですか)

その間を取り持つのが運営会社ですが、YOUTUBEに上がってくる動画の数が人手では追い付かない数なのだそうです。

 

YouTube、閲覧されるビデオは1日あたり40億本。アップロードされるビデオは1秒あたり1時間分 | TechCrunch Japan

今回の内容は、毎秒1時間分のビデオがアップロードされているという事実に関するものだ。

 

だからAI。

何でもかんでもAIと十把一からげにしてしまうのは言葉として正しくないでしょうが、画像(音声)認識処理ソフトウェアという意味でAIです。AIを使って合否の判定をしています。

運営会社にとっての合格か否かを、現実の運用に乗せる為、費用対効果を考えた結果としてAIの判定を信用して運用しています。

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なので、AIの判定基準が甘かろうが辛かろうが、最終的にその結果を受け入れる決断をするのは、運営会社の意思決定者という「人」だということになります。

 

AI自体に罪はありません、ただの仕組みです。
もちろん学習(学習の何が正しいか否かという判断すらも人為的なものですが)の程度によって、成果に差は出ます。

その時々の結果を、判断材料にするか参考情報にとどめるか。AIの判断結果をどう受け入れるかは人間次第です。

 

別角度から。

こちらは、画像処理を行うそうです。

聞いた話によると、医師がレントゲンなどの判断をするのは退屈でミスが許されない作業なのだそうです。大変。それはまさにITが活躍するべき分野です。ITは単純な仕事を迅速に大量に一定の質で行うことができます。

では、これで人類は一歩進化した安心安心、かというとそうでもなく留意点はあります。

フォールトトレランス、フェールソフト、フェールセーフの違い

IT関連の方だとすぐにこれらの言葉が思い浮かぶと思います。
事故が起こったときにどうするのか等の事故関連の用語です。
事故は確率的に起こり得るものです。その確率が想定しておくべき程度に高いのであれば、起こることを前提に「起こったときにどうするのか」を考えておくべきです。
上記、画像処理、特に人の命に係わる画像処理においては、AIが診断を間違えるというのはマズいわけです。
上記でリンクしたのはサーバーなどの運用を前提としていると思われるので、抽象化して置き換えてください。画像処理の運用では「事故が起こったらどうするか」だけではなく「判断できないものが現れたらどうするか」も考えるべきです。例えば、「現在のAI診断は人間のそれと同等以上である、同時に信頼性の程度を%で出すようにしておき、低いものに関しては人間が改めて目視で確認し、別の検査でも確認を行う。」という感じです。

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先ほどの例ですと、画像処理においてはAIを信じてはいますがYOUTUBEの収益ラインを超えているか否かの判定よりは「参考情報」としての意味合いが濃くなるように思えます。

 

いかがでしょう、AIの判断をどう活用するのかは人間次第、という話はご理解いただけたのではないでしょうか?

 

だから、YOUTUBEは「AIが支配する動画投稿者にとってのディストピア」ではなく「動画投稿者に不都合な学習をしたAIを主に基準として収益を剥奪するか否かを決定するプラットフォーム」だと思うのです。

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で、ですね。

「AIを信じるか否か」から「どの程度信じるか」という話をしてきましたが、これをさらに進めます。

 

「人は何を信じるのか」

 

何でもかんでも、自分の目で見ないと信じることはできない、なんて極端なことを言えません。地球の裏側(ブラジル)とか月とか、行ってみたいし自分で調べてみたいとも思いますけれど、そこまでしなくともおそらくブラジルはコーヒーが栽培されてるしアマゾンは年々森林伐採されてるでしょうし、月はクレーターだらけの星なんだと思います。

では、 

ton96o.hatenablog.com

こちらで「権力者による情報操作云々」と話をしていた私が、それらを伝聞情報にも関わらず事実として信じるのはなぜでしょうか?

 

それが、上手く、説明できないのです。

 

そんなの常識?だったら常識って何?仲間内・関わる人の多くが信じている事?前提としている事?だったらそれらの人が全員騙されていたら、嘘を常識として信じなければならないの?

 

この辺りは、同じ人であっても、もの事によって真偽は変わってくるでしょうし、同じもの事であっても、人によって信じるか疑うかは変わるでしょう。

私自身が何を信じ何を怪しいと感じるのかは、私が今まで生きてきて培った信念的な何かで判断されているのでしょうし、政治や芸能のスキャンダルや報道のされ方をどう捉えるのか(真実か否か)は人によって変わる、という話です。

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今まで、人類は他人を信じるか否かという命題を背負いながら歴史を紡いできました。

イメージが発明され、宗教や神話や事実や噂やウソなど、膨大な情報を扱うようになってからは、情報を信じるか否かという命題を背負ってきています。他人を信じるか否かの問題は残存したままです。

そして、現在。上記の問題を残しつつ、AI(AIというからイメージが悪いと思うんです、単なる情報処理系統)に判断の一部を委譲するようになって、ブラックボックスディープラーニングの世界では問題視されています)なAIの判断と、人間はどう付き合うのかという命題を背負わなくてはいけません。

 

「AIに判断を任せられる、楽できる」というのは一面の真実ですが、逆に「AIをどう使うのか」という倫理観や価値観を人間が今まで以上に備えなければならなくなったというのはずいぶん皮肉な話に思えます。

 

今まで人は、他人や情報と上手く付き合えたのでしょうか?

そこそこ、社会が上手く回る程度には付き合えてきたし付き合えている、と私は考えます。そう考えたいのです。

だから、人間は、AIとの付き合い方も判断を丸投げにせず、「どう使うのか、何を信じるのか」という最後の砦は守れると思います。

 

と、耳に心地よいことを言ってる奴に限って、信じちゃいけない人だったりするんですよね。

 

ではでは。

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