人と話をすること、それ自体色々な種類があります。
世間話であったり商談であったり、説得であったり懇願であったり。
論理的であったり感情的であったり。
どれもそれなりに意味があるから、現在生き続けているようで。
今回は、会話そのものと誰が言うのかということについて書きます。
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昔、項羽と劉邦の時代。
三国志の前の話です。
劉邦という人の部下に、将軍がいたんです。戦争がとても強い。
その人がそこそこ大きな国を少数で打ち破るんです。
敵国もさるもの、賢い人が「こうすれば勝てる」と王様に献策しました。
しかしそれに反対する人がいまして、その人が権力を持っていたんです。
こちらは大軍、なのに策を弄することは天下に顔向けができませぬー、なんて言って。
結果としては、その大軍が見事に負けるんです、書いた通り。
でも将軍は冷や汗です。「やばいやばい、あそこで策(この場合罠くらいに捉えてください)を仕掛けられたらこちらが負けていた」
で、その策を出した人を訪ねるんですね。「あなたは賢い、私にアドバイスを」
そこでその知恵ものが言うわけです。「賢い人でも1000に一つは間違えるし、お馬鹿ちゃんでも1000に一つは良いことを言うものです」と、私はお馬鹿ちゃんです、と謙遜しながら素晴らしい策を将軍に伝えました。
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私たちが学ぶことがあるとすれば、まさに
「賢い人でも1000に一つは間違えるし、お馬鹿ちゃんでも1000に一つは良いことを言うものです」
ここだと思うわけです。
私たちが情報の受け手側である時、慎重にその中身を吟味しなくてはならない。
相手が誰であろうと間違いはあるし良いことを言うこともある。
一方で、情報の発信者である場合、それ相応の「立場」が無いと効果は薄そうです。
泥棒に「人のものを取ってはいけません」なんて言われたくありませんから。
(おや?世の中ではエグイことをする人が子供のしつけでは正論を言ってたりとか…?)
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私が「情報の受け手は中身で判断すべきだ」と主張する背景は、得てして人間はそうではないからに他なりません。
偉い人が言っていることは「もっともらしく」信じてしましますし、舐めている人・下に見ている人の意見は最初から耳に入ってこないのです。
また、感情論も論理的な話と同じく、現在に息づいている以上、有効な役割がある、と冒頭に書きました。
それが正しいとすると、同じ話題・内容でも人によって心に響く度合いが変わるのはごく自然な話でしょう。そして多くの方に納得いただけるはずです。
それは、権威の有無ではなく、例えば生き方の話であれば単なる有名人に語られるより、自分が憧れる人の話を聞きたいわけです。偉いとかそうでもないとか、権威だけが人に話を聞いてもらえる必要条件ではありません。
生き方の話は聞いてもしょうがないけれど、野球の話だったらこの人から聞きたい、そんな例はいくらでもあります。
だから、聞き手は話し手を選ぶ。
当たり前ですね。
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会社でなくとも、組織体であれば、ただの連絡であっても感情が動くことは多々あります。
自分でできることは、自分を発信者として有利な立場に置くことくらいですが、時間的に無理な場合は人の手を借りる必要があります。
その人にしゃべってもらう、口をきいてもらうんです。
同じ内容なのに、そうすると上手く進んだりするから、なかなか面白いものです。
人は、内容で判断していないし、そもそも内容を評価できない。
いかがでしょ?
評価することに興味が無いのかもしれません。
あの人が言っているから聞こう、くらいの話。
そこまでとは思いたくありませんが。評価しよう判断しようという意思はあるけれどうまくできていないだけだと思いたいですが。開き直って「どうにでもなーれ」という状態ではないと思いたいですが。
ではでは
?