かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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リスク管理の評価は難しい-実例-

今回はこちらについて書きます。

 

リスク管理の評価は難しい。だから行動に結びつかないということを書きます。

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2020年7月、九州を中心に大雨が続いており、犠牲者も出ています。

人が亡くなるのは悲しいもんです。

 

熊本に日本三大急流球磨川というのがありまして、その下流域がえらいことになっているらしいのですね。その川にダムを造る予定があったのだけれど凍結されて現在に至る、と。

なので「ダムを作っていた方が良かったんじゃないのか?」説が出ているらしいです。

 

現在、中国で長江に三峡ダムというものがありまして。日本よりはもっと早い時期に大雨が降ってダムの貯水量を超えました。で放水(放流?)をしたんだそうです。
警告なしにやっちゃったらしく、それはマズいでしょうと思うんですが、貯水量を超えそうだったらどっちみち放水(放流?)せざるを得ないわけで。

 

なら熊本も、そもそものダムによる治水が上手くいかなかったという実例になりません?

球磨川のダムを作っていたとしても上手くいかなかったかもしれない。その場合、今「ダムを作っていればよかったのに」と言っている方はおそらく「ダムなんか作っても意味が無かった、その分のお金を他に回せばよかったのに」と言っているはずだと思うんです。

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別の角度から。

 

冒頭のツイートを受けての話。

今年災害が起こるでしょう、その時避難場所は「密」な状況になるでしょう。そこでクラスターが発生するかもしれませんね?

私は過去にそんなツイートをしました。

それは私の慧眼でもなんでもなく、他で聞いた話に納得し「天災が来ないといいな、避難場所が密にならざるを得ないから」というツイートに至ったんです。

それは現実のものとなり、冒頭のツイートを2020年7月7日(七夕なのによぅ、くそぅ)に行いました。

 

他で聞いた話というのがWEBでの記事でして、それは多くの方に見聞きされているはずです。その記事を読んだ方が他の方にも世間話として話をしているとすると、結構な方が頭の片隅に残っているでしょうし「なるほどそうなるよなぁ」と一定の割合の方は納得し「どうにかすべきだよな」くらいのことは思っている(いた)はずです。

 

では、現在大雨による被害を受けている地域の非難場所が、密を避けた場所かというと、事実は知らないのですが、とてもそうには思えないのです。

特に熊本は近年よく災害に見舞われています。そんな余裕はないと思うのですね。

 

他の場所地域であっても、「去年(2019年)は酷かったから今年は来ないだろう」くらいの意識で避難場所の整備が行われなかったのかもしれません。

武漢肺炎がとても怖いもの、という前提を置きますが「避難所を三密を回避した状況に整備しておくべきだった」という論調は起こりうると考えます。

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何か被害が起これば「やるべきだった」、起こらなければ「ムダ金だった」

リスク管理はそう言われがちです。 

ton96o.hatenablog.com

こちらでは共通認識を持つ事が大事であると書きました。

 

人間は弱くてズルい一面を皆が持っているので、それはなかなか難しいのでしょう。
結果が出てから文句を言うのが「楽」ですし「楽しい」らしいですし。
責任なんて取りたくありませんし。本質的な意味での責任なんて取れませんし。

 

・リスクの評価がそもそもできない
・できたとしても、施策を打つには至らない事がある
・なぜなら施策を打つと確実にコストがかかるが、それが報われるかは不確実だから

 

リスク管理の施策、インシデントが発生してもその影響を軽減させる施策が効果を発揮するときは不幸が起こる時です。
そうなると、コストをかけて何かを行う事にためらいがあっても、人の感情としては理解できます。嫌な未来は想像したくありません。都合のいい未来が来ることを待ち望むことを世間ではポジティブ思考というらしいです。
(備えるべきには備えるべきですが、その「備えるべき」を判断できる人がどれだけいるのか、結果は出なかったけれど判断は合理的であったと言える人はどれだけいるのか)

 

コストという損失を確定するのは、人間として難しいことです。

投資界隈で行動経済学の観点から人間は損きりが苦手というと、ひざを打つ人も多いでしょう。

 

そうなると、「結果は出なかったけれど判断は合理的であった」といえるリーダーシップを持つ人間を責任者に置くのが良い、ということになりますがそれはガバナンスの観点からは良いことだとはみなされないでしょうし、実際多くの場合は汚職や利権の温床になりそうです。そうなるとリーダーシップを持つ人は独裁者と揶揄されます。

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「じゃぁ、どうすべきだというのかね?」 

それに答えが出せるのであれば、とっくに誰かが実行しています。

 

代案が不必要だと思いませんし言いっぱなしで良いとは思いませんが、それだけ仕組みとするには難しい問題であり、誰も悪くないのに不幸は起きるということになります。

結果に文句を言うな、とまでは思いません(例えばダム建設に反対だった人がダムによる害が起きた時に文句を言うのは仕方ないことだと思います)。しかし、関係のない人間がよそ様の事情に首を突っ込んでも、現実に即したことは言えそうにないと思います。

 

言えることは、未来は不確実で可能性も被害金額も推定しかできず、ゆえに期待値も概算でしかないため、それを根拠に為される意思決定は、考慮外の事項が結果に大きな影響を持つ場合、間違うということです。
責任者の意思決定の根拠は同時に結果が出なかった時の予防線でもあるということです。

 

分業の進んだ現在社会において、専門家に意思決定を委任するのは効率的です。

それは責任を押し付けているともいえるわけで、リーダーシップを発揮するために権力を持つというのは必然です。

その権力者である責任者が予防線を張るのは当然の自己防衛であり、意思決定のプロセスを根拠として残すのもまた必然です。

それにより、後世の人も再現可能な意思決定になり得ますが、社会科学の世界では変数の相対的な大きさ(各変数の重みづけ、係数)が変わるために再現可能とは言い切れません。

 

そうなると、責任者に誰もなりたくないという状況になり、責任者になるのであれば「うまみ」が無いと、ということで汚職がはびこります。

結果が出るなら、汚職があろうが人は気にしませんが、結果は流動的で構造的な汚職はおおよそ確実です。

 

となると、二択の結論になるように思われます。

1)権力と責任が集中する状況が続いて、ひずみは放置
2)権力と責任が分散する世界に変わり多数決であらゆることが決まる
短期的思考や反射的結論に飛びつく可能性がある
当事者意識が低い衆愚政治になる可能性がある

 

2)よりは1)がマシだと思われます。

代案や目を引くような意見を書けなくて心苦しいのですが、少なくとも論点は明らかにできていると思います。

結果論で語るのは誰でもできるので代わりにプロセスを語り、至らない点を語るのは誰でもできるので代わりに成果を語ると、少し、世の中が良い方向に向かう気はします。

 

ではでは

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