まずは、理想・完成形を考え、現状を目をそらさずに直視します。
そうすると差分、ギャップが見えてきます。
そして、そのギャップの構造を理解します。例えばお金持ちになりたいけれど貧乏で、仕事で活躍したいけれどションボリした能力だとします。だったら仕事を頑張ればお金もついてくると予想されます。
そのように論理構造を理解したうえで、重要度別に並べて、ギャップを解決していきます。
というのが仕事の基本です。
これに対するアンチテーゼを書きます。
まだ私自身がしっかりと理解できてはいないし納得しきれてはいないので、変なことを書くかもしれません。
ですが、そんな消化不良の状況でも興味深い話だったので書きたいと思ったのです。
そのギャップ、埋める必要はあるんですかね?という話しです。
----------------(‘ω’ っ )3
「理想との差分だから埋めるべきでしょ」
えぇ、まぁ、そうなんですけどね。
ドーナツの穴を見て、それを埋めるべきだと思いますか?
音楽で楽譜がありますね?休符、お休みの部分があります。そこにメロディを詰め込むべきですか?
「そりゃあんた、ごっちゃにしちゃいけないよ。ドーナツは穴があるからドーナツだし、休符で音を出さないからそういう音楽として完成してるんだから。」
えぇ、まぁ、そうなんですよね。
血迷った個性尊重を元に「努力しなくてもいい。君はそのままでいい」なんて言うつもりはありません。
誰かに会うときは身ぎれいにして相手を尊重すべきだし、知らないよりは知っておいたほうが良いことが多いのだから情報収集した方がいいし、世の中の流れは知っておいたほうが良いし、自分の仕事に関連することは絶えず勉強し続けるべきでしょう。
じゃぁ、具体例で話を進めます。
冒頭に出てきた、お金持ちになりたい人。仕事もバリバリやりたいので、まずは仕事を頑張る。そうするとお金もついてくるでしょう。そういう話を書きました。
これで本当にいいのでしょうか?
「何か問題が?」
あるかもしれませんし、ないかもしれません。
「はっきりしないね」
人や状況によるからです。
その人は本当にお金が欲しかったんでしょうか?本当に仕事をしたかったんでしょうか?それが上手くいったとして失うものはないんでしょうか?
何らかのセミナーで、そうですね、夢を実現させるだとか成功するだとか成長するだとか、そういうセミナーを思い浮かべてください。
そういう場所だと、意図せずとも、かっこいいことを考えるんじゃないでしょうか?
つまり我々は、理想と現実を考える時、理想もそれに至る評価軸も、本心ではなくウケがいいものを選んでいるんじゃないかなぁ?と思うんです。
子供であれば親や教師に、夫であれば妻や子供に、親であれば子供に対してウケを狙っているのではないかと思うんですね。
ウケというのは文脈で分かる通り、媚びるというくらいの意味です。
そうなんです、媚びてるように思うんです。
誰に?
世間に。自分以外に、時には自分に。
私たちの価値基準は常識を含め作られたものです。
それは教育かもしれませんし、メディアかもしれません。
常識が無いと社会で生きていけません。
だから、必ずしも悪いわけではありません。
ところが、特に自分の人生という大きなものを決める際に、それは大きな足かせになると考えられます。
自分が本当はどうしたいのかがわからない。心の奥底まで常識が染み渡っているから。
----------------(‘ω’ っ )3
やりたい事と現状にギャップがあるならそれは埋めるべきです。
そのギャップが埋めるべきかどうかは自分が判断すべきですが、その判断は本当に自分の判断でしょうか?という話しをしました。
奇抜な判断をしても、社会からつまはじきにされるだけなので、流されるような意思決定でも特に問題はないのかもしれません。生活を第一に考えた方が骨太で地に足がついた考えのような気はします。
では、それが後悔しない生き方なのかと考えると、若い時にこれをしておけばよかったと嘆くお年寄りは生まれないと思うんです。
これだけだと価値観の話になってしまうわけですが、それだけではなく、現状と違う理想を描いてしまうからそのギャップが不幸となってしまうというか。今そこにない幸福を想像することで自分で不幸を創造してしまっているというか。
理想的にはこうなっていたいのに、自分はこうである。みじめだ、と。
向上心を無くせ、という話しとはまた違うんです。
ましてや、青い鳥はそばにいた、なんて陳腐な話にするつもりもありません。
理想と現実に差があるから自分は不幸だ、これから成長しなければならない。ではその理想は本当に理想なのでしょうか?
----------------(‘ω’ っ )3
何ともまとまりのない文章ですが、これは言えると思います。
ギャップに意味を与えるのは、その人である。
ではでは。
?