かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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正解を探さない話

1000円札は拾うな、のように刺激的なタイトル「正解は探すな」としても良かったのですが、失敗をするとイジられるのでいつも通りおとなしめのトーンにしました。

 

こちらの社長さん、会社をつぶしまして、社長さんの調子が良い時に出したこの本のタイトルで結構話題になりました。

 

ですがこの方の本、私は好きでして。

こちらの本は今でも読む価値があると考えます。

会社自体が新卒採用コンサルの会社なのでその宣伝になるのは仕方ありません。逆にそういう信念を持っているからこそ、それを仕事にしようと思うわけです。

2020年7月現在、Amazon会員だと有料のUNLIMITEDという制度で読める状況の様です。面白いので是非。

  

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で、ですね。本題。

正解を探さない話をします。

 

私たちは無意識に正解を探してませんかね?という事をずーっと思ってまして。

そりゃ、学校で「2+3=」なんて聞かれたら答えを返しますよね。「5です」

 そういうものとは性質を異にします。

 

もっとあやふやな「職場を改善するためにどうすべきか?」とか「付き合う異性の選び方は?」とか、そういう時、私たちは本当に自分が考えていることを言えるのか、自分で認識している「自分で考えた結論」は本当に「自分で考えた結論」なのか?

その点、疑問なのです。

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まず一つ目。これは簡単に想像できると思います。

周りが黒と言っていれば、自分は白だと思っていても黒とする。

よく言えば、人当たりが良く人の和を大事にする、と表現されるでしょうか?

 

私が学生の時、女性にアイドルの写真を見せられて「この中で誰が一番格好いいと思う?」と聞かれました。女性が好きな男性の一般像なんてわからないし、アイドルですから全体的に整っているわけで「これがイケメン」「この人もカッコいい」というたびに、そんな馬鹿な、という顔をされるんです。最終的にその女性が好みの方が一番カッコいいという結論になるまで、はなされませんでした。

 

この辺りは冗談めいた笑い話ですが、大人の公的な場面でもそれは散見されます。

(公的私的という区分けはどこまで明確なのかという論点はありますが、ここではプライベート以外と緩くお考え下さい)

「職場をよくするために意見が欲しい」と上司が言ったとして、本当に自由闊達な意見が出るかというと、私は疑問なわけです。

「従業員は甘やかすとつけあがる。経営者目線をもって意欲的に仕事に取り組む仕組みづくりを考えてほしい」

そりゃ経営者ならそういう事を思いますよね。自分が楽ですから。

「部下は甘やかすとつけあがる。一つ上の目線をもって私が上に怒られないような意見を出してほしい」

上司の本音はこんなところじゃないでしょうか。自分の評価が下がると嫌ですから。

それを読んで部下は、その場にふさわしい意見をひねり出すと思うんです。自分の本音が許されない雰囲気であれば、それは口に出さないんじゃないですかね?

 

その結果何が起こるのかというと、「現実味のない制度の始まり」と「意見を出したものへの責任」です。

「君たちの意見を聞いて始めたこの施策、やる気が出るはずだろう?やる気が出たら成績が上がるはず。成績が上がらない奴はなぜだ?」

 

・・・、もはや巧妙ですらない。隠す気のない茶番劇です。

 

というわけで、お互いの幸せのためにも、空気を読んだ正解を探すのは問題点があると思うんですよね。

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次、

自分で認識している「自分で考えた結論」は本当に「自分で考えた結論」なのか?

こちらは、常識や考え方の教育であり洗脳に端を発した問題です。

 

私たちは社会で生きていくうえでの常識を教育されるのですが、それは洗脳でもあります。常識は常識なのでなぜ?と問えません。「そういうもの」なんです。

だから「常識を疑え」という主張は一理も二理もあると思うのですが、集団での立場によっては「おかしいな」と思ってもまずはそれを身につけることになるのが普通のように見受けられます。

自分から洗脳されに行っているんですね。

 

「本当はこうしたいんだけど、空気を読んでこう言った」という自覚があるうちはまだ良い状況で、自然に集団の空気を乱さない「思考」になっているとしたら(表現は色々あると思いますが)洗脳されてるんじゃないでしょうか?その集団に「馴染んでいる」と表現していいのかもしれません。

 

また、権威ある主張を自分の主張としてパクる場合もあるでしょう。

○○の教授が言ってた、医師が言ってた、有名人が言ってた。

無意識のうちにやってしまうことはあるでしょうが、意図的である場合それは罪深い。

パクるだけだと思考が浅いんです。話を進めていくと「だって○○さんもこう言ってたんだぞ!!」と逆切れされることになります。

 

自分の考えなんて、探すものではなく湧き起こってくるものだと思います。

脊髄反射で感じる事を重視しているわけではなく、主張は信念や信条からくるものだと思いますので、その妥当性を検証するにしても思ったことそれ自体は自分の内側から出てくるものだと思うのです。

パクリからはそれは生まれません。

 

逆に、有名人の言っていることに心底納得しており血肉になっているのであれば、同じような主張が出るのも納得できます。

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というわけで、正解を探すようになると

・空気を読めている奴にはなれるが好ましい状況を作る事につながらないかもしれない

・結論だけでそこに至るプロセスを軽視しがちになり、集団に同化され自分の信念が無くなる

事になるんじゃないかと思うんです。

 

「何を大げさな」

まぁ、そういわれてもしょうがないんですが。

Twitterとかyoutubeとかを見ていると、同じような話題で同じような結論だったりするんです。間違いが怖いんですかね?それともコピペだと楽?それで楽しいんなら別に。私がどうこう言う事ではありません、か。

事実誤認なら少し調べればいいのでしょうし、ゼロにはできないから割り切りも必要だと思います。他人と違う意見を持つ事への恐れを間違いと表現するのであれば、この記事の結論は決して大げさではないと考えます。

 

ではでは。

 

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