先日からサイクリングを継続的に行っており、もともと頑張ってくれていた自転車が遂に悲鳴を上げまして。日曜日に廃車と相成りました。
だましだまし、修理に次ぐ修理を施しながら乗っていたので、結構心が痛みました。
多分ですが、普通の人であれば「これなら買いかえちゃおう」というレベルを超えて修理をしていたように思います。
今回はこの件を通じて思ったことを書きます。
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自転車は言うまでもなく生き物ではないので、特に葬式を上げるという事もないのですが。直感的にしたいと感じました。
一般に葬式は儀礼的なもの、すなわち、やるべきだからやるという洗脳といっていい社会常識の端緒といえるでしょう。
一方で、やりたいからやるという気持ちもあるわけで、儀礼化していないときはそれこそが葬式の動機だったはずです。
巷で見聞きする話として「葬式や墓参りは、亡くなった人というよりは、亡くなった人に対して残された者が心の整理をつける」という話しです。
私は賛成します。
そう考えると、私は自転車に対して、心の整理がつけられなかった、だから感謝とともに、後めたい気持ちや新しい自転車を購入するうしろめたさを感じたのかなぁ、と内観するのです。
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断捨離という言葉が流行りました。
今でも、バズワードにこそなっていないものの、一般的に使われる言葉になっているように感じます。
断捨離をするときには、掃除や整理のテクニックよりも心の整理に重点が置かれるのだそうです。
コンプレックスがある人ほどモノが多い、貧乏人程ものが多いというのはよく言われる話です。いつか英語を話せるようにと思う人は行動が伴わないのでいつまで経っても参考書が「積ん読」状態でただそこにあるだけ。
お金持ちなら必要な時に買えばいいのに対し、貧乏人は少しの節約でなぜか得をした気持ちになれる為、金持ちは空間・スペースを有効活用でき、モノが少ないから掃除がしやすく、健康的な空間にいられるます。一方、貧乏人はモノが多いので掃除自体がやりずらく手間で、掃除しなくなり不衛生な部屋で過ごすことになり健康状態まで悪くなるらしいです。
なんか、怖い。
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そう考えると、私も何らかの執着というか、こだわりというか。あまり心が整理されていないのだろうと思われます。具体的にはあまり思いつきませんが。
すぐに思いつき、尚且つ説明しやすいとすれば、サンクコストでしょうか?
今まで本体は寿命だけれど、サドルやブレーキやタイヤなどなど、修理に修理を重ねてきました。愛着があるのは一つの真実ですが、修理してきたから今それを買い替えれば今までの修理代が無駄になる、という考えがあったのかもしれません。
実際、日曜日に買い替えを行う前日、土曜日ですね、ブレーキの修理を5000円かけて行いました。つまりは5000円の無駄です。おいしいご飯が食べられるはずのお金でした。
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上記はわかりやすい例です。
それだけではなく、やっぱり何かのこだわりがあるのだと思います。
「自分のことは自分が一番良くわかっている」と聞きますが、多くの方が分かる通り、そうでない部分も多分にあります。
自分で今まで気づいていなかった自分を知る一つの手段は、自分が何に拘るか、だと思われます。
人に対してやたら礼儀にうるさい人がいたのですが、その人は私から見て無礼な人でした。おそらく礼儀に対するコンプレックスがあるのだろうなぁと感じます。
これが一人二人ではないんですね。10人はいかない程度。結構なもんじゃないですか?
一般化して、人が何かに拘るという事は、それに対してコンプレックスがあるのだろうなぁと思います。
私は何ですかねぇ?一般的にロジカルである事・深く考える事・自分の考えをまとめる事に気を付けていると思うので、そのあたりにコンプレックスがあるのかもしれません。
自転車に対して、思うところがあるとすれば、、、、。
なんだろう?全然わかりません。
この理屈で言うと、恋人と別れる時、人付き合いが得意な人はあっさり分かれそうです。自分の稼ぐ腕に自信がある人はあっさり会社を辞められそうです。
逆に、恋人とだらだら関係を続ける人は、自分にとってより良い関係を作れない人であり、違和感や不満を持ちながら会社に勤める人は、実力が不足しているのかもしれません。
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鷺沢萠さんの本で「バイバイ」という本があります。
これは、深く解釈をすると難しげになりますが、浅く文章のまま読み取ると、自分で区切りをつけようという話しです。(レビューを見るとそんなに高くないですね、不思議)
今回の記事で
「ははぁーん、老子辺りを持ち出して、人間が持てる量には限界がある。一つ得るためには一つ捨てなくてはならない、なんていうつもりだろう?」と思われる方がいるかもしれません。
違います。
むしろ、手放すという行為を行わない事は、新しく得られる何かを得られないかもしれないというリスク・責任から逃れている。
自分で決めて捨てて自分で決めて新しいものを得るという能動的で主体的な思考と行動から逃げている。
いるものを捨てるより、いらないものを置いておく方がましだろう、という理屈を自分の都合のいいように拡大解釈している。
辺りが近いのかなぁと思います。
では、主体的でないとなぜ逃げていることになるのかというと、言い訳ができるからです。主体的か否かがコンプレックスとどうつながってくるのかというと、主体的に区切りをつけられない人は、それでも自分が主体的になれてないことに負い目を感じているように思うのですね。だから、気にはなっている。そうなると、カラーバス効果により、他人のアラを見つけやすく気にしやすくなるからです。
私は自転車にどんなコンプレックスがあるんだろう???
書きながら考えているのですが、わかりません。
書き終えて考えたのですが、やっぱりわかりませんでした。
モノとの別れは誰でも惜しいという感情を浮かべます、それ以外の事にも気づく人は気づいているのだと思います。
ではでは。
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