先日「自分のアタマで考えよう、を読むべきだという話」という記事で、
>序章にて、女史は言います。「知識は過去、思考は未来」。
>これほどまでに簡潔な説明があるでしょうか。
>
と書きました。
自分のアタマで考えよう、という本を読み、その意見に賛同したにもかかわらず、この定義が素晴らしかったので、自分のアタマで考えられていないことに気づいたのです。
ここで、自分なりの、知識と思考の定義を考えます。
「知識は額面通りのもの、思考は自分次第で増やせるもの」です。
ここは私らしく、仕訳で考えていきたいと思います。
途中で自己創設のれんや主観的な評価など、制度に即していない部分がありますが、言いたいところを慮っていただきたいと思います。
まず、何かしらの情報源を買います。
スタンダードに本を買うとしましょう。
・本 1000円/現金 1000円
1000円の本を購入し、現金で支払いました。
次に、本の消費、読書が始まります。
本を消費するということは読書をするという事、その内容を習得するという事です。
・思考経験 N1円/時間 N1+N2円
本による知識 N2円
時間は機会損失と捉えてもいいかもしれません。時間を消費したことを本来持っている資産のマイナスとして表現しました。
その代わり得られるものがあります。思考経験と知識です。
知識は多くの人がN2円そのままを得られますが、思考経験N1の値は人によってかなり差があります。
特に、思考経験は、複利効果を産む資産だと思いますので、読書による思考経験が多い人ほど、N1の値が大きいはずです。(知識だってそうだ、とわかってはいます。違いをはっきりさせるために、このような扱いをします。)
そして、思考経験が豊富な人は生産性が高く、一定の時間でもほかの人より多くの価値を生み出せると想定されるため、時間の値はN1+N2で問題なさそうです。
思考経験と本による知識は、無形資産です。
ここで、考えなくてはなりません。
必ずしも、N1+N2=機会損失の額ではないのです。
上記の読書が、将来、何かの価値を生む際に有効に働くものであれば、上記の仕訳ではバランスが取れません。
N1が相当に大きい場合、言い換えれば、今回の読書によって、素晴らしい思考経験を得られた場合です。
上記仕訳では、一つの本に対する読書から得られる効果が、人によって変わることを考慮しました。
それを踏まえて、得られる経験が将来的に十分な価値を生じせしめる元になる場合、時間をN1+N2とするのはおかしいのです。読書によって失った時間の価値を、読書によって得られた価値で測るのは時制がズレています。
そのため、このように書き換えましょう。
・思考経験 N1円/時間 機会損失円
本による知識 N2円/読書によって得られた純資産 N1+N2-機会損失円
価額には困りましたが、N1もN2も測定不能なので、時間の価値は思い切って「機会損失円」としました。読書をする前の人における機会損失額なのですね
・読書に費やした時間より、読書から得られた思考経験や知識が多ければ、自己の純資産が増える。
・思考経験は読書をする人によって振れ幅が大きく、読書から得られるN1円は当人の思考力によって価値が相当に上がる。
・一方で知識は、確かに得られるための技術は必要ではあるが、スキルがいかに高かろうと、そこに書いてあるロジックや記述以上のものは得られない。
グラフにするとこのような感じです。
知識は、獲得スキルが拙くとも、ある程度のスキルがあれば相応に得られます。
一方で思考経験は獲得スキルがないと得られません。
「知識は額面通りのもの、思考は自分次第で増やせるもの」なのです。
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