久しぶりに本の紹介をします。
高校生が学んでいるビジネス思考の授業という本です。
この本は、高校生が学ぶビジネス書ではありません。
そう思った方は、私と同じ勘違いをしていると思われます。
高校生が学んでいるビジネスの授業
ではなく
高校生が学んでいるビジネス思考の授業
なのです。
ビジネス思考。
この本で扱うのは論理です。議論です。そして思考の幅を広げるツールです。
それらは、ビジネスのメタ知識であり、議論をして意思決定を する際のフレームワークです。
それは、ビジネスの土台になるようでいて、そして、論理が通るのは理想論でもあります。
理想。
無理が通れば道理は引っ込むのです。
理想は理想で大事だと思いつつ、でも実際は、という思いもあり。
しかし、それでいて、我々社会人が実務で使うにあたって重要な事柄が各所にちりばめられているので、この本を紹介します。
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過去記事でこういうものを書いています。
思考フレームワークが好きなわけではありませんが、物事を体系づける方法論には興味があります。
私は、仕事のおおよそは整理することだと感じているからです。
私たちは具体的な例を 知覚し、整理して一つの法則を導き出します。その上階層の概念を場合によっては再構築して枝葉を入れ替えたりします。
帰納的な考え・行動が整理につながるようです。
演繹は何かを作ることは少なく、むしろ、帰納要約された経験則からほかの分野に応用する、考えを伝えるために抽象的な経験則を具体例に落とし込むときに多く使われると考えています。
PDCAでいうところのDo以外はこれに当てはまるように思いますし、Doで行う実際の行動も経験則に依るところがある以上、部分的には上記に当てはまるように思うのです。
ご多分に漏れず、本書の論理に書かれた部分では考えを整理することができるはずです。
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本書は大きく4つに分かれます。
序章において、著者が担当する「情報科」という科目についての話が出ています。
一章では論理の性質を説明し、その限界を説明されています。
二章では「議論」について説明し
三章において「ゲーム理論」「マインドマップ」「モデル化」「統計」を具体的な考えるための道具として説明されています。
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一章では論理について書かれます。
論理式というと、難しく思われがちです。
しかし、
真理値表を使えば、直感的にわかりやすいはずです。
この本の良いところは、論理について書かれていながら、正しく扱うためにその限界も書いているところです。
そこでは、論理にできるのは、前提から結論を正しく導くことだけだ、とされます。
確かに、話をするうえで前提条件を置いてあるのに、そこから膨らむ話をしている途中で前提条件に突っかかられると困ります。前提条件に無理があるというのであれば、話を進める前に前提条件に無理がないことを、もしくは無理があるとしても思考実験としてその体で進めることを議論すべきなのですね。
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二章の議論についての記述は飛ばします。
著者はおそらく、論理的に正しくあろうとし、それでもなお、意味がある話し合いにするには人との関わり合い、ここでいう議論が必要だと説いているのだと思います。
論理の正しさは、仮に置いた前提から誰がやっても導き出される結論への正しさです。
主観や価値観の違いがそこに現れることもありますが、機械の正しさといってもいいでしょう
一方で議論は違います。
著者は言います。
議論は飛躍してナンボである、と。
ただし、議論をする上での注意点も述べています。
・説得力によって評価されなくてはならない
・正誤の問題でなく意思の問題である
・意見には必ず理由を添えること
そして私が最も大事だと感じたのが
・議論は勝ち負けでなく、ぼんやり→くっきり
という点です。
議論は勝ち負けでない、という点は、本書だけでなく様々な本で書かれてはいます。
しかし、その「多くの本に書かれている」という事実が、同時に「議論で勝ち負けを争う人が多いのだな」と思わずにおれません。
実際、社会においては「議論に強い=相手をやり込める」であったりします。
「私はいつでも冷静に議論をする」なんてとても言えません。おそらくどうしようもない時には私も声を荒げ威嚇し無茶苦茶なことを言うでしょうし、相手が弱いと見れば論旨をずらして(たとえ相手が気づいていたとしても)自分の有利を勝ち取ることをするかもしれません。
自分は清廉潔白だというほど面の皮は厚くないのです。
そして、社会では正しい議論を望んでいる状況はあまりなく、資源の奪い合いである事が多いように感じます。
本章において、 「論う」という漢字の読み方を書かれています。
その副題が「答えのない問題への取り組み方」です。
「論う」は「あげつらう」と読むそうです。人の発言をあげつらう、なんて使いますね。
しかし辞書的にはもう一つ意味があるそうです。
物事の善悪・是非・可否を論じるという意味です。
つまり、論うとは、いい点も悪い点も十分に議論を尽くし出し尽くすという意味合いだった、と。著者の思いを語っています。
私はこのエピソードから、人間は相手の否定が好きなのだと改めて感じました。
通俗的には、重箱の隅をつついて、時にはテーマに関係のないことで議論の方向性を自分に有利なようにコントロールしている人はたくさん見てきました。
「あげつらう」の意味が、変化していったのにも人間の根っこの部分がかかわっているように感じます。
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三章は、それこそ「考え方」に関する自己啓発本などを読めば出てくる内容が盛りだくさんです。
私としては、一章と二章が素晴らしいと感じます。
そして、私がコントロールできる部分では、正しく「論う」議論ができるようにしたいと感じます。
人間ですので。理性がありますので。効率の問題にはなりますが、理想の姿を体現したいじゃないですか。
ではでは
?