若の場合、背景が相当特殊で、Twitterオタクならぬ和歌オタクが教養がある人、とみなされていたとかなんとか。 https://t.co/dJiALeYTIb
— ton (@ton960) March 25, 2018
誤字炸裂。
それはさておき、短い文に思いを乗せることについて考えました。
二つ思いつくことがあります。
1)イメージの重要性
2)制限のある文字で伝える事により生じる行間
1)イメージの重要性
その如月の、望月のころ。
これで西行が出てくる人は結構な教養の持ち主だと思います。
それか村山由佳ファンでしょう。
(こちらも参照;願わくは花のもとにて 村山由佳 :日本経済新聞)
和歌だとなんだか、知識人っぽい感じがしませんか?
一方でTwitterを使うのは大衆というか。
なので、
Twitterではある程度、フランクな物言いや、俗なツイートが飛び交っても、
和歌で下品下劣な言葉遊びをする人はあんまりいないのです。みんな作品を作ろうとするから。
お下品なのが好きな人は狂歌や川柳に行くのです。
和歌ではみんな、意図を読み取ろうと必死なのです。
Twitterではそんなことまで考えません。
2)制限のある文字で伝える事により生じる行間
どちらにしても、短い文に自分の思いを託すことには違いがありません。
そこには、ポイントを抑え、簡潔な文章で相手に伝える文章力が必要とされる・・・
気がしますが、本当にそうでしょうか?
実際私はTwitterは用例通り、つぶやくことがありますし、自身のメモ代わりにも使います。(うざったい人、ごめんさい)
和歌は、相手の教養を判断するために、わざと説明を入れずに固有名詞や言葉遊びを、ポンと、置くように乗せてきます。
ここでは教養と行間を読む力が試されます。
誤解を生む可能性があるが、あえて作った間隙を、教養と頭の回転で埋め、さらには返歌で頓智のきいた答えを返す。
なんとも、気の利いた感じがしませんか?
自分の意図が通じて、それに沿った、おしゃれな返歌が返ってきたら、やっぱり、こう、感動すると思うんです。
昔は、和歌のやり取りがラブレター代わりだったというのも納得です。
今でいうとこんな感じでしょうか?
読書が趣味の女性が、気になる男性に、好きな作家のちょっとした一節を話してみる。それに男性は答え、その作家の別の一節を添えて答える。
知的だ。
知的すぎて私には無理ですが。
何のかんので、
短い文では、どうしても言いそびれたことができてしまいます。
行間を読む力が必要になるとともに、何らかの共通理念、共通理解があることが
上手にこれらの道具を使う、大前提になっていると考えました。
そして、そのコミュニケーションがうまくいくと、つながりが雪だるま式に増えていくのだろうな、と思います。
言葉を駆使して通じたコミュニケーションよりも、短い言葉で思いが伝わった方が、なんだかお互い「わかってる」感がありませんか?
ないかなぁ?
P.S.
わかる人は是非コメントください。
出来損ないの、ドイツ語みたいな、名前でしょ?
?