かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

?

行間ができる必然と、その効用について考えた

f:id:ton96O:20180326190406j:plain

誤字炸裂。

それはさておき、短い文に思いを乗せることについて考えました。

 

二つ思いつくことがあります。

1)イメージの重要性

2)制限のある文字で伝える事により生じる行間

 

1)イメージの重要性

その如月の、望月のころ。

これで西行が出てくる人は結構な教養の持ち主だと思います。

それか村山由佳ファンでしょう。

(こちらも参照;願わくは花のもとにて 村山由佳 :日本経済新聞

 

和歌だとなんだか、知識人っぽい感じがしませんか?

一方でTwitterを使うのは大衆というか。

 

なので、

Twitterではある程度、フランクな物言いや、俗なツイートが飛び交っても、

和歌で下品下劣な言葉遊びをする人はあんまりいないのです。みんな作品を作ろうとするから。

お下品なのが好きな人は狂歌や川柳に行くのです。

 

和歌ではみんな、意図を読み取ろうと必死なのです。

Twitterではそんなことまで考えません。

 

2)制限のある文字で伝える事により生じる行間

どちらにしても、短い文に自分の思いを託すことには違いがありません。

そこには、ポイントを抑え、簡潔な文章で相手に伝える文章力が必要とされる・・・

気がしますが、本当にそうでしょうか?

 

実際私はTwitterは用例通り、つぶやくことがありますし、自身のメモ代わりにも使います。(うざったい人、ごめんさい)

 

和歌は、相手の教養を判断するために、わざと説明を入れずに固有名詞や言葉遊びを、ポンと、置くように乗せてきます。

ここでは教養と行間を読む力が試されます。

誤解を生む可能性があるが、あえて作った間隙を、教養と頭の回転で埋め、さらには返歌で頓智のきいた答えを返す。

なんとも、気の利いた感じがしませんか?

自分の意図が通じて、それに沿った、おしゃれな返歌が返ってきたら、やっぱり、こう、感動すると思うんです。

昔は、和歌のやり取りがラブレター代わりだったというのも納得です。

 

今でいうとこんな感じでしょうか?

読書が趣味の女性が、気になる男性に、好きな作家のちょっとした一節を話してみる。それに男性は答え、その作家の別の一節を添えて答える。

知的だ。

知的すぎて私には無理ですが。

 

 

何のかんので、

短い文では、どうしても言いそびれたことができてしまいます。

行間を読む力が必要になるとともに、何らかの共通理念、共通理解があることが

上手にこれらの道具を使う、大前提になっていると考えました。

そして、そのコミュニケーションがうまくいくと、つながりが雪だるま式に増えていくのだろうな、と思います。

言葉を駆使して通じたコミュニケーションよりも、短い言葉で思いが伝わった方が、なんだかお互い「わかってる」感がありませんか?

ないかなぁ?

 

 

 

P.S.

わかる人は是非コメントください。

出来損ないの、ドイツ語みたいな、名前でしょ?

?