信用経済という言葉が世の中を踊っています。
仮想通貨云々の文脈から、特に、信用という言葉を目にします。
先日、こちらを拝読しました。
誰かが信用から来る期待を換金する時、応援できるお金はあってもいいな、と。
— ton (@ton960) 2019年1月21日
そのお金は自分の信用で換金しろと?なるほど。
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ここにつけたコメントは正直微妙です。
微妙だな、と思ってくれる方がこのブログ記事を読んでくださっていると嬉しいです。
せっかく読んだので感想文を書きます。
さて。
「お金は手段なんだから信用を貯めるのだ!」
なるほど。私は素直に納得します。
まぁ、偏屈な人間なので、信用って言っても人脈の事でしょう?言い換えなくっていいじゃない。とは思いますが。
じゃぁ、信用って何でしょう?
お金は手段だという理屈と、同じ理屈がループしないでしょうか?
信用は何かの手段なんじゃないかなぁ?と思うのですね。
冒頭の本(?)では、クラウドファンディングを信用の換金手段として紹介しています。
(最終的に換金するのであれば、誰かがどこかで世間で通用するお金を稼いで来なくてはいけないのですが、、、、長くなるので、それはまた別の話に)
(ツイートのコメントが微妙、と書いたのはまさにここの事です。信用経済は金融商品でいうデリバティブのようなもので、物を作ってお金を稼ぐ人が必要なはずなのです。応援するのにお金が必要で、そのお金を信用で調達するのは無理があります)
では、信用を換金した人は何をするのでしょう?
こちらで出てくる方は、結婚式を挙げています。
結婚式を挙げるという消費活動を行うためのお金であり信用であるようなのです。
「結婚式場の人に、ただで結婚式を挙げてもらえるほどの信用があれば換金の必要はない」
確かにそうなのだけれど、ここで私が言いたいこととはズレています。
お金が消費の手段であるのと同様に、信用はお金を得る手段であり消費の手段でもあると思うのです。
では、最終的なゴールである消費をするために何が必要でしょうか。
ま、お金ですよね。
それにもまして、私は、時間が必要だと考えます。
高収入のサラリーマンでも時間がないから消費ができない、福利厚生が充実した会社に入っても時間がないから意味がない。
たまに耳に入る話です。
ということは、我々は、消費ができるだけの資源を蓄えておく必要があるのではないでしょうか。
その資源とは、もちろんお金かもしれないし、時間はマストだし、人脈、今風にいえば信用なんだと思います。
で、ここでまた話がループするのではないかと思うのですね。
消費って何でしょう?
お金は手段だというものと同じ理屈がループしないでしょうか?
消費は何かの手段なんじゃないかなぁ?と思うのです。
資産運用の世界で、よく使われる「消費と投資と浪費」という分類があります。
・消費は必要なものを買うこと。
・投資は何らかのリターンを期待して資源をかけること。
・浪費は必要でないものを買うこと。
です。
いろいろ定義はあるでしょうが、大きく外してはいないでしょう。
消費は必要なものを買うこと。
これが正しいのであれば、その必要なものがあれば最終目的と思われた消費すら手段なのだといえます。
なお、ここで消費には条件が付くことを示しておきます。
消費の具体例の一つは食べ物だと思います。食べ物は痛みます。腐ります。
だから、必要なものが必要な時に必要な量、手に入ることが重要なのですね。
冷凍技術などの発展は素晴らしいですが、消費対象を貯めておくというのは筋が悪そうです。
そもそも、モノではなくサービスであった場合、貯めておくことはできないのですから。
だから、適時適切な消費対象を入手できることをゴールとすることで、貯めておく必要性はなくなります。
どうやら、「貯めておける」という性質は非常に重要なようです。
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話がずれます。
お金は資産運用で増やすことができます。
多分、信用や人脈も同様です。
少なくとも、今、本やネットで見聞きするものであれば。錯覚資産なんて言葉が流行るくらいですし。何らかのテクニックがあるのでしょう。
だから、貯金や貯信(信用を貯める)ことと同時に、資産運用の「資産」はお金だけでなく信用が含まれてくるのかもしれません。
イメージが伝わりますでしょうか。
お金を稼ぐことから資産運用で、お金に働いてもらうという状況が出てきています。
今、巷では、信用を稼ごう、信用を貯めようという話があります。
お金と同じように、資産運用で信用に働いてもらうという状況が出てくるのではないかと思うのですね。
特に、斬新なことも変なことも言っていると思いません。
ブランド品の独占販売権のようなものですから。
そのような状況化において。無形資産である「信用」は、換金すべき場所によってその価値を大きく変動させます。
サラリーマンが転職しようとするときは、いつ、どこに、どうやって転職しようとするかによって、転職先での年収は大きく変わるはずです。
それと同じく信用の換金性には、大きなボラティリティが伴ってくるのだと思います。
だから、上手に換金しないといけません。
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話がだいぶそれてしまいました。
消費は手段なのかもしれないという話でした。
消費の先にあるのは何でしょう?
そう考えると、ある映画を思い出しました。
マトリクスという映画です。
有名な映画なので、一部、ネタバレしても特に問題はないかと思います。
主人公は、実は仮想現実の中で生きていたという話です。
消費活動によって得られるものは、実は安息・安らぎ・幸せという感情なのかもしれません。
だから、技術が進んで人間の人格が電子化・情報化された未来であれば、人は消費活動すらする必要がなく、人工天国で幸せっぽいものを感じるのかもしれません。
(その電子化されたインフラを最低限維持・整備するという仕事は残りそうです。そして多分、改善作業も残りそうです)
人間が生きる最終目的は幸せ・幸福を手に入れることであり、それは人工的に作ることができるかもしれないなぁ、と。
ここで、私は臆病なので権威付けをしておきたいと思います。
アリストテレスによると「幸福は人生の意味及び目標、人間存在の究極の目的であり狙いである」
だそうです。
幸せとは、誰かに認定されるだけではないのでは?
どんな状況でも、幸せを感じることができれば、それは理想といえるのでは?
幸せを感じる感受性が資産となり、資産運用の対象は、お金・人脈、そして感受性となるのでは?
世の中の人間すべてが、現状の幸せを感じ満足し、さらには増大させることができればプラスサムゲームが実現するのでは?
人間の想像力や思考は、かなり強力な資源なのでは?
上記が正しいのであれば、人を幸せにする事こそが究極の仕事像なのでは?
お笑い芸人とまではいかなくとも、話してて面白い人や、なごむ人、癒し系。
将来は知的労働者(インテレクチュアルワーカー)ではなく、労働者ですらなく、盛り上げ役が社会的地位を築くのかもしれません。
でも、あれ?
今現在、社会的地位がある人って、結構、盛り上げ上手な人が多いような気がしますね。
そもそも、信用を人脈といってよいのであれば、今そこそこ社会的地位がある人って、結構、人脈があるような気がしますね。
そうなると、「信用経済へのシフト」というのも、あんまり根っこの部分では変わっていないのでは?
世の中の原理原則は、あんまり変わらないのかもしれません。
ではでは
?