かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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大都市は文化的豊かさを再生産する話

自分の考えのまとめ。

特に私は、社会学的な何かの訓練は受けてない人間です。その点は明示しておきたいと思います。

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さて、こういう抽象的な話をする場合は、たとえ面倒であっても定義づけをしておかなくてはなりません。
今回の話は私の仮説であり、後々の答え合わせが必要なものです。
だから、必ずしも一般的に正解と言える定義でなくてもいいのですが、「ここでこいつは、なぜこのように考えたのか」が分かるように「こういう意味で使っている」ことは明示する必要があります。

文化とは生活様式のことです。住む家は夏を旨とするのか、効きすぎるほどクーラーの効いた部屋で厚着で過ごすのか、どちらもそれはそれで文化です。この例は住環境ですが、言語だって音楽だってこの範疇に入るでしょう。何も考えずに生活している人は稀でしょうから、考え方の癖も入ります。

大都市とは純粋に人が多く集まる場所です。必然的に人口密度が高くなるかもしれません。別の考え方でいえば時間的距離が十分に短ければいいので、例えば一番近いお隣さんまで徒歩5分かかるような環境であっても、何らかの移動手段を使えば低コストで数秒のうちに隣人とアクセスできるような場所なら大都市と言えそうです。(これはこれで面白そうな論点ですが、話がブレるので東京や大阪などの人口密集地とします)

文化が豊かになるとは、特にこの記事では、それぞれの違いを認めつつ、もしくは、認めていなくとも干渉せず、それぞれの文化が人間の世代を超えて伝わっている状況を指します。なので、ちょっと流行ったものは該当しないのですが、流行りモノが生まれる土壌は文化的に豊かな状況だといえます。
だから逆に、「進んでいるわれらの文化で、遅れているあいつ等の文化を塗りつぶしてやろう!(悪気無し)」なんてのは文化的侵略であって、文化を豊かにしているとは、少なくともここではいいません。

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大都市で文化が豊かになる前段階として、当たり前の確認をします。

大都市では、人がたくさんいます。

これが当たり前すぎるほど当たり前で、重要なことだと考えます。

人がたくさんいると何が起こるのか、それは、少数派が絶対数で表すと馬鹿にできない数になるということです。
例を挙げます。
マイナーなロックミュージシャンのファンが、18歳辺りの日本人で1%の比率でいるするとします。そのファンは田舎ではせいぜいネットを使って歌を聴いたり応援する程度でしょう。ライブが近くの都市であれば行くかもしれません。しかし大都市では違います。直接ミュージシャンが拠点とするライブハウスに行こうと思えばすぐに行けるかもしれません。
さらに重要なことには、ファンがファングッズの店を開いたりという、商売が成り立つ可能性があるという点です。
これは、比率は同じでも大都市の方が母集団自体の人数が多い為「〇人」という絶対値で考えると、例えば田舎では100人だったのが人口が100倍の大都市では10000人が潜在的な顧客になり得るということを表します。
だから、商売が成り立つ可能性があるのですね。

少数派が絶対数で表すと馬鹿にできない数になる、とはこういう事を言いたいわけです。

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別の面から。

大都市では人が多いので、様々な職種が成り立つ可能性があります。
先ほどの例と考え合わせて、田舎では成り立たない商売が成り立つ可能性が高いのですね。
セミナー講師の講師なんて、そもそものセミナー講師を生業とする人・仕様とする人が一定数いないと存在しえません。田舎で海や山の幸に恵まれ自給自足の生活をしている環境では、おそらく成り立ちません。

田舎で成立しない職業が成立する。
ということは、分業が進むということになります。

分業とはその名の通り、やることを分けることです。会社で営業マンは営業を、総務の人は総務の仕事をします。家庭で、今は少ないでしょうが、専業主婦は家事を多めにやる事でしょう。スポーツではポジション別に期待されるプレーがありますね、それが仕事になります。

人が多くなると、分業が進むのです。(逆に言えば人が少なければそれぞれが幅広くやらざるを得ません)
その結果、仕事内容は洗練されます。なぜなら効率が良くなるからです。

中小企業で、経理も総務も人事もシステムも、バックオフィスと名のつくものは全てをカバーする人がいたとして、それはそれですごい事なのですが、それぞれの分野で大企業の経理・総務・人事・社内システムそれぞれに敵わないように思うのですね。

人間の能力なんてそこまで極端に変わることはあまりないと思われます。
それを前提にすると、数種類の仕事ができている状態、それは、広く浅い状況だからと言えそうです。

一般に、学習は一つのことに集中すれば上達が早いでしょう。
先の例でいえば、経理も総務も人事もシステムも、お仕事とされている方からすれば奥深いもののはずです。それをすべてこなせているのであれば、余程の天才か浅い仕事でどうにかなっているか、です。そして、私たちが天才を見ることはほとんどありません。

なので、分業が進むと狭くとも深い仕事をより早く習熟します。
だから、分業により仕事内容が洗練されるのです。

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では、仕事内容が洗練されるとどうなるでしょうか?

ゆとりが生まれます。

これは時間的にも金銭的にも、です。

経理も総務も人事もシステムも一人で頑張って凄いけれども、それぞれ20点の会社と、それぞれの担当者がいて90点の業務を行っている会社、どちらが会社の基盤が安定していそうでしょうか?

何もバックオフィスに限定して想像する必要はありません。R&D研究開発と営業でもいいでしょう。開発をしながらその人が売りに歩く、非効率です。

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ゆとりが生まれると、次に何ができるか。アソビができます。

これは「遊び」かもしれませんし、蛇口やハンドルの、ちょっとしたゆとりの「あそび」かもしれません。

どちらにしても、やらなくても生きていける何かをすることができるようになるわけです。

高校時代、受験勉強で英語の長文読解を勉強していました。その時に「文化は砂漠では生まれない、何故なら余裕から文化が生まれるからだ」なんて内容があって考えることがありました。
実際、砂漠にすんでる方にもそこで生きている以上文化があるでしょうから、ここでいう砂漠は生きるのに精いっぱいの砂漠なのでしょう。

それを教材とするのであれば、人が集まり分業が進みゆとりが生まれると、文化が生まれそうです。

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ということは、冒頭で「文化が豊かになるとは、ちょっと流行ったものは該当しないのですが、流行りモノが生まれる土壌は文化的に豊かな状況だといえます。」と書いたことが生きてきます。

ちょっとした遊び心から流行りモノって産まれると思います。

だから、余裕がある所は文化的に豊かな状況なのだと思うのですね。

では、なぜ流行りものそれ自体を文化が豊かな証拠と思わないのか、です。
根付いていないからです。
流行りものは若者の間から生まれることが多く、それは最新の技術や音楽や芸能や、それらに敏感で、それらにアンテナを張って消化・消費する余裕があるからですよね?
一方で、自活していない状況でのそれらは生活している状況ではなく親の庇護下にある状況で、大人や世間へのアイロニックなものであろうともアナーキーなものであろうとも、余裕という甘えから生まれた何かのように思えるからです。

この余裕は豊かな状況の現れですが、だからと言ってそこで生まれたものすべてが世の中に受け入れられるわけではありません。

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「でも、若者発信の文化で、日本人に根付いた文化ってあるよね?」

その通りです。例えば「イケメン」ということばです。今はお年寄りでもその意味を違和感なく理解するところですが、もともとは流行り言葉だったと私は認識しています。

若者文化が大人によって商売にならずとも、それ自体が全体に受け入れられると文化になるのだと思われます。

ここでいう全体は広範な意味を持ちます。若者A君とB君の間だけで通じる言葉遊びは文化と言えなくとも、若者一万人というプレイヤーがいる言葉遊びにまで発展すれば文化と言えそうです。必ずしも大人を含めた全体ではなく、大人数であればいいのではないでしょうか?

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ここまでの話を読んで、「若者に恨みでもあるのかね?」と仰る方もいるでしょう。

そうではありません。

むしろ、純粋な文化は余裕のある若者から生まれることも多いと考えています。
ただ、それらが受け入れられるには、条件が必要ということです。
何度も出てきますが、人口が多い事。です。
人口が多ければ、一つの宣伝活動で広がる絶対数が相対的に多くなるはずです。
田舎で100万円使って宣伝をしてはやらそうとした成果よりも、大都市でやって他の同じような感性を持つ若者にマネされるだけで田舎の成果を上回る事だってあるでしょう。

なので、同じような感性を持つ、もしくはそれにあこがれる人たちは益々大都市に流入してくることになります。
それがさらに、若者発の文化を広めていく前提になります。

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このように、人口が多いところで分業が進み、余裕が生まれ、それによって新しい何かが生まれて分業がさらに進む。廃れていくものもあるだろうが、基本、より便利なものが生き残っていくため、余裕が生まれることによる文化の醸成が進む(再生産される)という感じのことは言えそうです。

であれば、新しい文化、音楽や流行り言葉に限らず新しい生活様式を求める人はそれにふさわしい場所に移動することになります。
そうなると、大都市の同質化が始まります。
「大都市の多様性がいい」と考えるのではなく「大都市で流行っているアレが好き」という人が流入してくる状況ですね。

そうなった大都市は冒頭の私の定義

文化が豊かになるとは、特にこの記事では、それぞれの違いを認めつつ、もしくは、認めていなくとも干渉せず、それぞれの文化が人間の世代を超えて伝わっている状況を指します。 

 こちらからは外れていく可能性があります。

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大都市でどのように私が考える文化的豊かさが増していくのかという話をしてきたつもりです。最後は衰退の一端を見せましたので、もう一つ別の衰退シナリオを書いておきたいと思います。

それは人口減少です。

人口が減少すると今までの良い歯車が逆回転を始めます。
必死に違いを出そうとしてもみんなどこかしら同じ状況で、特に、一般的に言われるようになったブラック企業であれば生活していくだけで精いっぱい、文化的な生活なんて望めないという話も聞きます(生存権の侵害?)余分なことをするよりも生きていく事が優先されるとしたら、そこは大都市の外見をした砂漠なのだと思います。

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ここで、思い返していただきたいのです。

大都市とは純粋に人が多く集まる場所です。必然的に人口密度が高くなるかもしれません。別の考え方でいえば時間的距離が十分に短ければいいので、例えば一番近いお隣さんまで徒歩5分かかるような環境であっても、何らかの移動手段を使えば低コストで数秒のうちに隣人とアクセスできるような場所なら大都市と言えそうです。(これはこれで面白そうな論点ですが、話がブレるので東京や大阪などの人口密集地とします)

この定義を引っ張り出しましょう。特に、話がぶれるとした最後の部分を思い返してください。

何が思い浮かぶか?

ネットですね。

今や生活のインフラと言っていい、ネットの社会。
ブログによる文章、インスタによる写真、ユーチューブによる映像・音声。様々な文化的活動にあふれています。

改めて、ネットの世界は文化的豊かさを再生産できる土壌だと思います。
そこにアクセス(しないのではなく)できない人は、健康で文化的な生活を営むことができないと言えば言いすぎでしょうか。

そうだとしても、多くの人を相手にすることができる可能性がある世界である事は間違いないはずです。

だとすると、そこここで発生する文化の衰退の兆しも目につきます。
自分で作る、多様性を尊重する(もしくは気にしない)のではなく、「これを使っているとハイクオリティな人に見える」とか「立場が上の俺がお前らに文化を伝えてやる」とか、そういうスタンスです。
もう一つの衰退シナリオは人口減少でした。現在流行っているのが、誰でもアクセスできる場に情報を提供するのではなく、クローズドな世界で、例えば今だとオンラインサロンでしょうか、そちらのみで仲間内と情報交換する方法です。
オープンな場は衰退の兆しが見えているのかもしれません。
(もともと本当に価値のある情報がネットでタダで落ちてはいませんが)

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まとめます。

 

リアルの世界で大都市では分業が進みゆとりが生まれる為、そして人口が多いゆえに少数派であっても生計を立てやすい為、新しい文化が発生しやすい。それが文化として定着するかどうかは別問題だが、新しい文化が発生する土壌を維持し続けること自体は、相対的に可能性が高い。
一方で、何か新しいものが生まれればいいわけではなく、根付いていないとただの流行りもの。(それ自身が「あの時流行ったアレ」という価値を持つ事はあるのだけれど)
大都市の住人が多様性を拒否するようになったり人口自体が減ると文化は衰退していく(ハズ)。ただ生きているだけの人が多いのであれば、それは大都市の外見をした砂漠。
現在の大都市は、ネットの世界だが、衰退のロジックはリアルのものと大差はなさそう。

 

日本人が減り、移民を受け入れると言っても日本語ネイティブな人が減少していく事が予想される昨今、ネットであっても日本語での大都市(集団)は無くなるのかもしれません。

というわけで、文化を守るためにはある程度の同質的な人が多様性を認めつつ(もしくは違う人を気にしないで)生活する空間が必要っぽいです。

 

ではでは。

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