大学では一般教養という種類の授業があります。
私は商学部という学部に通っていたので、会計や金融が専門なのですが、数学や英語に限らず、映像文化史や歴史学という授業もとっていましたし、他学部の授業もとっていました。
専門以外の授業を一般教養という種類と考えてください。
普通の大学生同様、授業を取っただけでその分野に対して詳しくなるわけでもなく、ただ、考えるきっかけは多くいただけました。
その中の一つが歴史学の授業で「歴史は論理である」という一言なのです。
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〇さんがこうしたから、これが起こった。
確かに論理です。
当時の私はなるほどなぁと、ひどく感心したものです。
一方で最近、歴史は偶然が作り出したという主張を目にしました。例えばフランス革命、ヴァレンヌ事件では多くの偶然が転機になっていることがわかります。
歴史にIFは禁物らしいですが「もしあの時こうしていれば」という空想は歴史愛好家にとって楽しいものです。(私は愛好家とも呼べない素人ですが)
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歴史は論理である。偶然である。どちらも理があるように思えます。
そういう場合、私の判断では「歴史は論理でもあり偶然でもある」という結論に落ち着きます。
どちらも納得できる言い分がある場合、その時々で配分が変わり目立つ部分が変わるだけで、どちらも含まれているという状況だろうからです。
歴史は過去です。
そこから未来を学ぶためにはどのように応用していくべきか?
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多分、論理は偶然の助けを得て結果を残したんじゃないかと思うのです。
人事を尽くして天命を待つ、この言葉がしっくりときます。
勝てるだけの会社はたくさんあった、人事を尽くした会社はたくさんあった。
でも、結果が出たのは一部だった。
何故なら、「結果が出た」といっていい席は一つしかないから。
勝負は相対的なものだから。
優秀な人間が多くいる世界でも、一番は一人だし、そうでない世界でも同様である事をお考えいただければ、と思います。
歴史で勝てていた人や組織って、実は結構あるんじゃないかな?と。でも、そこに偶然存在した人に負けて、優秀な人が負け組(というのも失礼ですが)になってしまったと。
サリエリもモーツァルトがいなければ偉大な音楽家と語られたのかもしれません。
ではでは。
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