かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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ESGを数値化することについて(004)~企業統治の強い個別性におけるその補論~

今回は先日の記事

 

ton96o.hatenablog.com

こちらの追加記事になります。

 

経営戦略の策定・実行の土台としての企業統治、その具体例から個別性が強いと私が考える理由をお伝えできればと思います。
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企業統治で数値目標とされる典型例が外部取締役の存在です。「何人いいる」「取締役会の何%が外部取締役だ」「監査役にこういう要件の人を雇った」皆さまもこういう話をよく耳にしませんでしょうか?

さらには多様性の確保です。「特定人種の男性だけが取締役会にいたのでは、多様で変化に富んだ現在の経営環境に対応できない。だから女性比率何%、多種多様な人種を採用し取締役会にも同様であるべきだ」と。

なんだかとってもよさそうです。直感的にというか直情的に脳みそを通さず脊髄で考えると「これでよい」となりそうです。

一部メディアで、これらの姿勢が絶対的な善であり正義とされていたのも私たちの価値観の醸成に一役買っているのかもしれません。

果たして、絶対的な善なのか?

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話の流れから、私がそう考えていないという事はおわかりでしょう。

具体的にどういう事に問題があるのか?

それは形式主義に陥りやすいという点です。

例えば、外部取締役はいわば代表取締役やそのお仲間たちの暴走を止めるためのブレーキの役割を期待されているはずです。が、その実態は経営陣の人脈で引っ張ってこられることが多いようで。そういう状況下において外部取締役が本当に雇い主のブレーキという役割を果たせるでしょうか?むしろ逆に賛同してしまうのでは?だったら「外部取締役の規定をクリアするためだけの存在」になってしまうのではないでしょうか?

監査役についてはもっと深刻だと認識しています。プロパー社員の「あがり」の一つ、役職がついただけでありがたいという立場で、どこまで監査という、いわば経営者の邪魔をする存在に徹することができるでしょうか

監査役野崎修平 - Wikipedia マンガにもドラマにもなっています。特にマンガは古い商法下での話になっているはずなので、その点は考慮する必要があります。マンガだととっつきやすいと思われます。)

多様性の確保にしても同様です。「女性取締役を何%」という役割を果たすためだけに取締役に選出された女性は、もちろん世間一般の男性社員より仕事ができるのでしょうが、それでも経営を行うにあたりベストな人なのかというと疑問です。

経営陣はその集団の中で経営を最も効率的に行うことができる集団であるべきだからです。その観点から選出し、結果として白人男性が100%になっても、メスチソ女性が100%になっても、それは企業の経営には関係がないという話です。

(注1;集団として経営を効率的に行う集団であるべきですので、その中の一人一人を見ていくと必ずしも経営能力順でない事はあり得ると認識しています。)

(注2;取引相手や外部環境において、「白人男性が100%の経営陣を持つ会社?そんなの時代に逆行している。うちは取引しない!」とか「メスチソ女性が100%の経営陣を持つ会社?女は信用ならん!男を出せ!男を!!」など、人の信条はそれぞれですので、この場合、上記条件では「経営を最も効率的に行うことができる集団」ではありません)

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形式主義の何がよくないのかというと、ギリギリの線を狙ったり規制の穴をねらう人が出てくる点です。ビジネスなんだからそのくらいやって当然という気持ちもわからんではないですが、法律などの規制はそういうものではないはずなのです。

例えば、、、、ぱっと思いついたのがハラスメントですのでそれを具体例として説明します。例えば「死ね」というのが判例パワハラだと認定されたとします。ま、良くないですわな。ここで私が問題視する人はこのように考えます「「死ね」はダメ、アウト。それ以外ならいい」と。罵倒する言葉や人を傷つける言動なんて、それこそ無数にあると思われます。形式主義の世界では「その規定が何のために存在するのか?」ではなく「形式さえ整っていればいい」という世界です。おそらく公私限らず懲罰を与えられない別のやり方が編み出されると思うのです。その世界では現実世界の多くと同じように、規制は事例の後追いであり犠牲者の屍の上に築かれます。「死ね」がだめなら「消えてなくなれ」ならセーフかどうか?

これが会計の世界で起きたのがエンロン事件です。

エンロン - Wikipedia

大企業が不正会計をした、というのが大きなあらましです。ここから細則主義から原則主義へと意識が変わります。

国際会計基準IFRSと日本会計基準の違いとは?① | 予算管理.biz

細則主義は規制のカタマリで細かなことまでルールが作られており、それを越えなければOK。原則主義はこういうのはダメ、例えばこれね、という原則が示されそこから逸脱するものはダメ。

細則主義の規制は帰納的で原則主義は演繹的だと言えるでしょう。

多くの場合、その規制の思想を上手く実行できるのは原則主義だと理解しています。

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話を経営陣に戻します。

では、原則主義に則り、バリバリ働く監査役や外部取締役がいたとします。代表取締役が攻めたことをいうとブレーキをかけるわけですね。

実際、外部取締役には必要以上にブレーキをかけるインセンティブが存在します。何も言わなければ自分の成果は公にされません。だから発言をして自分の存在価値を認めさせるのです。

これはこれで問題です。企業経営においてリスクを取って攻めるべき時はあり、「どうなるかはわからないけれど、これだけのリスクと考えられるリスクへの対策を経済的にとって攻める」という場合にまでブレーキをかけるのは行き過ぎだからです。

 

車を運転する時、アクセルを踏まなければ車は動きませんし、アクセルだけでは事故を起こしてしまいます。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのは、それぞれはすごく頑張っているように見えて、その実相当な無駄でしかありません。

車は、ハンドルとブレーキとアクセルが協働して初めて効率的な乗り物になります。

そこで大事なのはドライバーの判断力です。

 

もちろん、ここでいう車は経営陣ですので、経営陣の皆が有機的に一致団結し目的地である企業の営利活動を効率的に遂行することを意味します。

私は、ブレーキ役がうまく機能するのであれば外部取締役や監査役自体必要ないと考えています。もちろん現在の会社法で上場企業では義務化されていることは存じています。その縛り自体が子供っぽいものだという事です。

ルール化すれば、企業統治が既存役員のみで上手くできているところも制度に合わせた組織編成を強いられます。それは費用となって利害関係者を害します。

一方で慮外者を牽制できることも確かです。現在の会社法における企業統治の制度化は、お行儀の悪い企業をマシにするために、企業統治ができている企業にも負担を強いる制度だと私は考えます。

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ここで改めて痛感するのが、相手の役割を評価することの難易度です。

あなたが平取だったとして、外部取締役の言動を適切に評価できるでしょうか?一つ歯車が違えば、黙っていれば「引っ張ってきた奴に遠慮して座っているだけで報酬もらえて良いですね」口を挟めば「この会社の事は俺たちが一番よく分かってる。知りもしないで偉そうなことを言うんじゃない」こんな状況になるのではないでしょうか?

一方で、あなたが平取だったとして、外部取締役の事を好ましい人物だと思っていたとします。口を挟まなければ「私たちがやろうとしていることを理解して余計なことをしない好感を持てる人物だ」発言をすれば「外部の事は私たちはよくわからない。外部で培われた知見をもとにアドバイスをしてくれる好感を持てる人物だ」となるのではないでしょうか?

 

ありていに言ってしまえば、企業における経営戦略の策定という、いかにも高度で「すごそう」な議論においても、人間関係の好悪によって納得感が変わるのではないかという事です。私は「Gの数値化」で「納得感」を重要視しているのでした。これを外部から数値化することは難しそうです。

 

アンケートでも取りましょうか?「この人が言ったことに対してあなたはどの程度納得感を示しますか?」「この4半期における経営戦略の策定で誰が議論をリードしましたか?」

アンケートはアンケートで問題が生じますが、できることで少しずつでも形にしていく他ないように思えます。

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というわけで、昨日記事にした企業統治の補足でした。

まずは、形式主義の弱点を明確にし、数値化するのであればその本質部分を探りたいという考えを書きました。その中で納得感というものは人間関係に起因し、その数値化は外部からでは難しく、アンケート調査でも行わなければ現在進行形での数値化は難しそうだという結論を書いています。もちろんアンケート調査にはそれなりの難点がありますのでそれはまた次の機会に。

 

ではでは。

 

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