かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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ESGを数値化することについて(014)~Gにおける多様性とその測定における論点~

今回はGについて書きます。

前回の記事

ton96o.hatenablog.com

透明性なのですが、測定に関してはいろいろと問題が残るかと思います。測定(調査)する側とされる側で人間的に感情が動く事があれば、そりゃ人間ですから多少数値が変動しても当然です。もちろんそれは無い方がいいでしょうが、ゼロは原理的に難易度とコストが現実的ではないので現実的には「誤差は利用に支障のない範囲にとどめる」ことが条件になるでしょう。

この当たり絡みです。測定においての論点、特にGについて思うところを話の流れという事で書きます。

ESGとの類似概念はまだ環境会計が残っているのですが。まぁね。書かないと忘れちゃいそうなので。

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Gについての話はすでに記事にしている内容があります。

ton96o.hatenablog.com

こちらは、Gすなわち企業統治は経営における土台であるという内容で、企業価値をどのように私が考えているのかと、企業価値創造とESGの関連についても書いてあります。戦略と企業統治の関連についても書いており、戦略の価値とは納得感である、と私は主張しています。

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今回は、昨今Gにおいて重要視されている「多様性」をテーマにします。

 

世の中としては「多様性」が良いものとしてとらえられている風潮を感じます。しかし私はそれに反対です。多様性が良いか単一性がいいのかは、厚着が良いか薄着が良いかを論じているようなもので意味がないのです。寒いなら厚着にするし暑いなら薄着にする。子供は風の子と鍛えたいなら薄着にするし、体調が悪いなら厚着にする。ただそれだけのことです。「どちらがいいのか?」ではなく「現在の外部環境と内部環境においては、どの程度多様性を受け入れるべきか?」という、状況把握とバランス感覚の話だと思うのです。

「多様性」それ自体は絶対善でも絶対悪でもなく、ただそこにある概念です。

重要なのはそれを扱う人間であり、どれを善とするかを決める人間です。ただの概念を絶対善に祭り上げるのは何がベストか考えることを放棄した怠慢の現れです。絶対善とすればそれを取り入れるだけで良いことをした「気に」なれるからです。

 

例えば危機的状況にある大企業病に侵された企業には強力なリーダーが必要でしょう。そこに必要なのはブレーキではなくサポートです。スタートアップで高速にPDCAを回している最中、まさに走りながら考える状態のときにのんびりと決定に茶々を入れる人がいる状況がベストな企業統治の姿だとは思いません。

この状況下においては「あそこに行くぞ!」という声に皆が「うお~」と突っ込んでいく一体感こそが企業の強さであり企業が統治されている証拠だと考えます。

 

逆に言えば、それがアダとなる状況もあるという事になります。企業が大きくなればそれまでリーダーが全ての情報を咀嚼し決断をしていたという事が難しくなります。大企業病を立て直した強大な権力は、そのままにしておくと腐敗します。理想的にはこの変化のタイミングを見極め、それに伴った企業統治が行われているかを測定することがESGスコアの価値だと信じます。

が、変化のタイミングが分かれば、大概の経営陣はそれに合わせて組織再編成を行う・少なくとも計画するわけです。一般論として、実際に自分の財産とキャリアを賭けた人たちが上手くやれていないわけですから、外部の人間がその変化のタイミングを見極められるかは大変に怪しい。

もちろん、ジョハリの窓よろしく、内部の人間がわからないけれど外部の人間は気づくということはあり得るので理想の測定に近づくことをあきらめるのはよろしくないでしょう。一方で現実的に「元が取れる」事業になるのかという観点から考えると別のアプローチも考えざるを得ません。

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多様化は必ずしも良いことではない、という観点の話をしました。次に「本当に多様化を実現できているのか?」という話をします。

 

先述の通り、多様性を求められる状況もあれば、単一性を求められる状況もあるので「その判断が重要だ」というのが私の主張です。

では、その判断が上手くいき多様性を求められる状況下と判断されたとしましょう。その状況下で、経営陣の三分の一が外部取締役であったり経営陣のN%が女性なら多様性が確保されるのか?という話です。

私にはそれで多様性が確保されたとするのは大いに疑問なのです。

取締役になるのは引き上げてくれる先輩が必要でしょうし、多くの場合、上に行くにつれて世間は狭くなるので人間関係に気を遣うようになるでしょう。「違うと思うんだけどな~」と思いつつもそう言えない状況が多くなるはずです。現状女性進出や人種や国籍のマイノリティ比率を上げようとしている最中であれば尚の事、引き上げる側としても「私たちの邪魔をしない、けれど多様性のポーズをとることができるアイツが次の取締役だ」となるのは、決してフィクションの世界ではないでしょう。

これが成立した会社で、多様性のある意思決定ができるのでしょうか?多様性のある企業経営ができるのでしょうか?

 

ESGスコアを測定する側としては、各企業の経営状況を鑑みてそれにマッチした組織体制が組まれているかを前提に、その理想(ToBe)に現状(AsIs)が追い付いているのかを判断せねばなりません。今回の事例に照らすのであれば「個々人の考え方の多様性」はもちろん「実際に行動できるか?できたか?」という点を測定せねば意味はありません。

それはつまり、多様性が必要とされる状況下で本当に多様な人材が終結したとして、少数派が本当に皆と違う意見を提案することができるのか?という話になります。

私は日経の企業でしか働いたことがないので、その中での実感になりますが、やはり、他の人の顔色を窺った「正解」を見つけようとする動きを感じますし、「落としどころ」に落とそうという圧力は大きいと感じます。先ほども言ったように経営陣の人間関係は狭く、その狭い人間関係を壊したくないという意図が入るのは当然であり、そうなると折角多様性がある人材を集めても、マイノリティは自分の意見を言えない、という事になると思うのです。

 

これらの人間関係や実際の経営においてさえ困難とされている課題を、測定においてそれなりの納得性をもって計測するのは相当な困難があると納得されたのではないでしょうか?

それでも何とか解決策を探さなければ前に進めないのですが。

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さらに言えば、組織論でも取り上げられそうなこの話題、客観的に測定できる人はごくごく少数だと考えられます。そこに権力が生じるのであれば、それはESGスコアという仕組みのウィークポイントであり、小判を小判と認識できる猫が黄色い饅頭につられて測定結果を変動させるというリスクが存在します。

今のところ、Gにおける測定の客観性担保の仕組みは理想論・抽象論でも解決できません。

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というわけで

・ESGのは企業統治であり、それは企業運営の今回に当たる(過去記事参照)

・多様性の測定は難しい

・多様性はそれを取り入れることが善なのではなく、その企業にとってどの程度取り入れるのが善なのか?という話だから

・さらに、本当に多様性がある人材体制を整えることが困難だから

・加えて、多様性の必要な状況下で多様性のある人材体制を整えても、多様性が発揮されるには実務上の困難があるから

・とどめは、その価値がわかる測定者は権力者になるから

 

流石に多様性の実行可能性は「結果的にどうだったのか?」という実績でしか測定できそうにありません。(心理的安全性というのも、うーん。)形式的なものだけで測る事は「形式さえクリアすればOK」と企業に誤ったメッセージを送ることと同義であり、それが今起きている「私がESGの数値化に感じている不満」につながります。

今回は論点出しに終始し、解決策を書けていませんが、解決していかねばならない課題です。

 

ではでは。

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