かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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ESGを数値化することについて(011)~類似概念についてのコーポレートシチズンシップ~

このカテゴリ「ESGの数値化」では、漠として判然としない、良く言えば「ふんわり」悪く言えば「ぼんやり」したESGという概念をどうにかして数値化できないか?という試みの記録です。進め方としては、なるべく漏れがないように演繹的に行い理想論で進め、まずは自分の考えを現在の知見でまとめつつ仮説を立て、文献などを調べて仮説を検証しつつ現実に合わせる、という流れで行っています。

 

ESGとは言いますが、「SDGsと何が違うの?」という疑問を持つ方が多いでしょう。それと同じように類似概念が多く

ton96o.hatenablog.com

先日はフィランソロピーに関して記事にしました。

今日はコーポレートシチズンシップについて書きたいと思います。

CSRとかPRIだとご存じの方が多そうなので「ほ~ら、君らこういう言葉もあるんですよ、知っててESGとか言っちゃってんの?」という煽りも含まれます。類似概念の紹介において、フィランソロピーやコーポレートシチズンシップを最初に出してくるあたりが、その一つの現れです)

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さて、コーポレートシチズンシップです。

コーポレート・シチズンシップ(Corporate Citizenship) | | 公益社団法人日本パブリックリレーションズ協会

によると

企業市民、企業の市民活動を意味する。企業も地域社会におけるよき市民として存在し、社会に貢献すべきという考え方。1969年にIBMが宣言してから、先進諸国の企業でも一般化。

とのこと。私は「企業という法人がより良い社会の一員であろうとすること」と理解しています。具体的には、公害を起こすような廃水を流したりしない、地元住民の雇用創出に寄与する。と、こんな感じです。地域のイベント、お祭りとか?あたりに寄付・協力金を出すのもこれに当たると思います。ESGであえて分類するのであればSです。(分類することにあまり意味はありませんが)だから、コーポレートシチズンシップはESGより狭い概念だと私は理解しています。

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次はここにフォーカスします。

1969年にIBMが宣言してから、先進諸国の企業でも一般化。

原文はこちらにあります。PDFです。

職業センターや教育機関への援助を行った、と。部外者の一般市民から見ると良いことのように思えますね。

History of IBM - Wikipedia

こちらを参照すると、興味深いことがわかります。同年1969年ですが

1969: Antitrust. The United States government launches what would become a 13-year-long antitrust suit against IBM. The suit becomes a draining war of attrition, and is eventually dropped in 1982,[156] after IBM's share of the mainframe market declined from 70% to 62%.

独禁法関連です。この辺りを見ると、当時IBMはまさに2021年のグーグルのような存在であり、イメージを大切にして反感をそらしたかったのでは?と邪推します。

つまり、職業センターや教育機関への援助はイメージ戦略であったと、私なんかですと邪推してしまうのです。

これは一概に悪い事とは言えません。企業は営利目的で運営されており、その目的にかなった合理的な行動をすべきです。社会という第三者的立場から客観的にみても「ボランティア活動に従事して経済活動がおろそかになり利益が少なくなって納税額が少なくなったり、従業員が疲弊する」事と「その企業が得意とする分野を活かして経済活動・社会活動に精を出し、利益を出して納税する」事、どちらが良いのかは明白だと思うわけです。

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2021年、世界はコロナのウイルスに包まれました。

そんな中、飲食店がコロナで困っている人に無償で商品を提供する、なんてことがニュースになっています。「その企業が得意とする分野を活かして経済活動・社会活動に精を出し」というのはまさにこのような活動です。畑違いの、そうですね、例えば半導体メーカーの設計担当が、地域の為だと「どぶさらい」をすることにどこまで意味があるでしょう?設計に集中してもらって、がっつり稼いでもらって、地元の商店街でたくさん買い物してもらう。こちらの方がよほど地域のためになっていると私は考えます。

 

一方で、確かにイメージも大事だよな、とは思うのです。

先ほどの例で言うと、特殊技能をもったホワイトカラーが傍から見ればちょいちょいとやって大金を稼いでいるわけです。商店街で買い物をしてくれても、なんだかモヤンとする。

わかる。

そんな「なんだかいけ好かない野郎」が、肉体労働して地域のどぶさらいをしているのを見れば、溜飲が下がるという面もあり、親近感を持つという面もあり、親しみはわくでしょう。

わかる。

 

わかるけれど、わかるのだけれど、この例の場合、経済的合理性で言ってはそれは不合理なのです。逆に言えば、経済的に不合理だけれどそれを補って余りある程、ここでいうどぶさらいには心理的効果があると言えるのではないでしょうか?

 

コーポレートシチズンシップを、経済主体における活動の一環とするなら、心理的効果の経済性を勘案して活動すべきでしょう。経済主体である以前、社会の一員であるという前提に立つのであれば、何が何でも行うべき活動になるのでしょう。

 

実際のところは両方だと思われます。

社会の一員であるから公害を起こすような廃水を垂れ流すようなことはしない。これは社会の一員として当然のことです。一方でその対策が行き過ぎると(ここでいう廃水の汚染除去に必要以上にコストをかけると)産業自体が成り立ちません。地域の雇用を失うことにつながりかねませんので、元が取れる線引きは必要なはずです。

そう考えを進めていくと、私は「経済主体である以前に社会の一員である」から儲け度外視で活動する、というのはきれいごとのパフォーマンスかイメージ操作にしか聞こえません。あくまで社会に受け入れられる程度に、元を取れるように、活動をするというのが私が理解するコーポレートシチズンシップです。

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・コーポレートシチズンシップは、企業も社会の構成員の一員であるという考え

・大まかに二種類の活動が含まれる。すなわち、社会に迷惑をかけない事と社会に貢献することである

・前者は企業活動の前提として取り組むもの、後者は特に経済的合理性を勘案すべきもの

・一方で、経済主体は経済活動を行うだけで、付加価値を創出し、雇用を創出し、納税による所得の再分配に貢献する

・だから、どぶさらいのような社会活動は経済的合理性が成立する範囲で行うのが正しい(イメージ戦略を含む)し、社会に迷惑をかけない活動であっても、企業活動が著しく損なわれるコストをかけるのは本末転倒

・上記はイメージ戦略を含むので、当該活動自体は不経済であっても、その活動によるイメージ向上が会社の売上につながる、訴訟などが抑えられるなどの算段が成り立つのであれば良い

 

このような感じになります。

 

経済活動というと脊髄反射的・生理的に嫌悪感を示す方が少なからずいることは知っていますし理解しています。しかしそういう方こそイメージ戦略に踊らされやすいというのも一般論として言えそうだと私は考えます。

ガンガン稼いでガンガン地元にお金を落としてくれたら、それは多大な社会貢献活動のはずなのですが、それよりイメージにコロリと騙される方が多いと不安です。

私が不安感を抱こうが、現実は現実として受け止めるしかありませんし、むしろそれを利用する「したたか」なスタンスでなければいけない事も理解しています。

が、この「一般論として人は勘定ではなく感情に動かされる、動かされてしまう」という点は、数値的な測定の困難となり得ます。(その点はまた別途)

測定における困難と相まって、利用する場合の納得感に影響が出る可能性もあります。(例えば、感情として100のものが、客観的数値で20と評価されていればどうでしょう?その数値を出した資料自体を信用しなくなるのではないでしょうか?)(この点もまた別途)

人間だから感情があって自然ですし、そこから生じる不合理も、予見できるなら対策を打つべきです。

うーん、考えます。

 

以上、コーポレートシチズンシップの話と、そこから垣間見れる人間の感情論についての話でした。

 

ではでは。

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