「成功すること<失敗しないこと」という暗黙の了解が無意識化で成立する環境では誰も責任を取らないのでは?無難な行動で無難な結果に落ち着くように思います。
— ton (@ton960) 2019年1月4日
戦略がなかなか決まらないのは、なぜか (3/3) - ITmedia ビジネスオンライン https://t.co/HkUnsr7TXq
上記、引用ツイートのような記事が、王道的古典としてあり、それに対する反応として「どんどん失敗すればいい。そこから学ぶのだ」という流れがあるな、と感じています。
それはその通りで、新しいことをやると最初から上手くいくことはまれで。
だから、失敗していない=新しいことをやっていないか能力の限界に挑戦していない、という理屈が通ります。
そのため「不確実性が高い現代では人と同じことをやってもダメだ、どんどん新規性の高いことに挑戦しよう」という意味合いを込めて、「どんどん失敗しよう」と言われるわけです。
しかし、そこの意図が正しいのであれば、その意図を外しては絶対にいけないはずなんですね。
失敗して、学ぶ。というサイクルを回すことができるのが大前提の話なのです。
だから、学ぶ力がある人は、それなりに影響が大きい失敗に挑戦しても、アリだと思われます。
失敗を糧にできないんだったら、失敗したところはできるように、その段階でとどめるのがいいのかなぁ?と。
周りの納得感も違いますし、ある人にとってはチャンスで挑戦のし甲斐があるイベントであっても、その人にとっては単なる無茶振りかもしれない。その状態で「挑戦」させるのは、挑戦というキレイな言葉を借りた、嫌がらせでしょう。
「畳の上の水練、という言葉があってな」
ま、そうですよね。
自転車だって、実際にやってみた方が早いですし。
じゃ、下半身を使ったキャッチボールができない人にメジャーリーグに挑戦させると無謀でしょう?
明らかにステップを飛ばしているのです。
もっと小さな傾斜で負荷をかけていったほうがいいんじゃないかなぁと。
そうすることで、どうにも「失敗→学習」の回転が遅いなぁという事であれば、他の事に注力した方がいいという判断ができるでしょう。
学習レベルが低い状態ではどんなに良い教材であっても教訓を腹に落とし込むことはできないように思うのですね。
というわけで、失敗をするというのは別にいいのですが、学習レベルを上げていく必要も大いにあるなぁと。
先述の故事に対抗して、故事成語を出してみます。
「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」
こんな言葉もありまして。
これは年長者の意見を絶対視せよという意味で出していません。
十分に汎用化でき、教訓の要諦をつかんでいるのであれば、今昔変わらず活かせるものはいかせるのかな、と思うのですね。
歴史は「失敗と改善」史でもあるわけです。
教材を教材として、使えるだけの「学び力」があれば、実際に失敗をせずとも歴史から学びを得ることができるのだろうと。
また、歴史が「他人事」である点もご注意ください。
何も自分が失敗しなくても、自分の感受性が強ければ自分の事として学ぶことはできるようです。
「人の振り見て我が振り直せ」ですね。
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最後に、当然ですが、実行力が大事だなぁと思います。
失敗してそれで終わると非常にもったいない。
失敗して学んでも、実行しないと意味がない。
成果 = 学びの材料を受け取る感受性 × 学ぶ力 × 実行力 + 説明できない何か
という感じかな?と思いました。
結論、PDCAをこまめに素早く回しましょう。ですかね?
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