「日本語が乱れている」と識者が言います。
私が物心ついてから、入れ代わり立ち代わり、日本語の権威が現れては冒頭の言葉をのたまうわけで。
きっと、いつの世も日本語は乱れているのでしょう。
というか、日本語が常に、前世代の様式を一部の狂いもなく継承されていくものなのであれば、私たちはきっと、古文で習うような言葉で話しているはずなのです。
もっと厳密にいえば、それは文化的にも変化がないことを意味します。
スマホなんて言葉、昔はありませんでした。
それはスマートフォンそのものがなかったからです。
言葉が変化しない世界は、社会に変化がない世界だといえるように思います。
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なので、私は、自分に違和感がある言葉を見聞きしても、それをとやかく言わないようにすべきなのだろうな、と考えています。
他の方がどういう行動に出るかは知りませんが、自分においては、です。
若者言葉の流行や変化はすごく激しく、それを端で聞いた大人が目をひそめるのです。
それを見て、私はみっともない、と感じるのですね。
若者言葉はジャーゴン的な、仲間内の言葉という役割も果たしているように思います。
楽屋裏ネタといいますか。
だから、彼ら彼女らが身内で話している分には、何をどう言ってもいいと思うのです。
犬を猫、猫を犬と言ったってかまわない。
「それが通じる」関係であることの確認だと思うのですね。
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一方で、彼ら彼女らが、他のコミュニティに対して自分たちのジャーゴンを通じるものとして使っているのであれば、それは違うのだよなぁ、と思います。
現状、イケメンという言葉は流行語から日常用語として広がったものだと思います。
が、多くの流行語は、その時パッと広がって、パッと散ります。
知ってる人もいれば知らない人もいる。
それは、コミュニケーションの土台としては不適切なのですね。
だから、公の、例えばテレビの、しかもバラエティではなく教養番組であれば、そこに出演する方は、それなりに言葉に注意しなくてはいけない。
上記を、届けたい対象に応じて必要な言葉の選択が必要だ、と抽象化して考えると、逆も言うことができます。
例えば、高校生が高校生を対象に作る動画であれば、はやり言葉が出てくる方が自然で伝えたい内容を伝えやすいのではないでしょうか。
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「あなたは友達よ。それ以上でも以下でもないの」
ドラマか何かでこんなセリフが出てきます。
きっと男性が女性に振られたのでしょう。ショックですね。
この、「以上でも以下でもない」という言葉って、不思議だと思いませんか?
文脈からすると明らかに
「あなたのことは友達としか見れない」「私にとってあなたは友達そのものである」
という意味なのに、以上でも以下でもない、とは。
以上でないから、未満です。友達未満だとすると知り合いです。
さらに、以下でもないので、うーんなんだ?存在が消えてしまったぞ?
ということは、
「あなたは友達よ。それ以上でも以下でもないの」
というセリフは正しくありません。
「あなたは友達よ。それを超える存在でも未満でもないの」
とすべきです。
でもね、この指摘・修正って言葉遊びです。
「以上でも以下でもない」という表現は慣用句ですよね。
そんなことを気にしていない人も、わかっていながら「そういった方が伝わるから」使っている人も、「以上でも以下でもない」という表現で問題ないと思います。
むしろ、「超えるものでも未満でもない」といった方が分かりずらい。
言ってみてください、きっと怪訝な顔をされますよ。
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言葉は道具であって、それが適切に使われるのであればどのようなものであっても別に構わない。
その適切性は、伝える側と受け手の関係性によるものであって、自分が関与していないものに突っ込みを入れるのは、なんというか、無粋。
ということなんじゃないかなぁ?と思います。
「つー」と言った人に「かー」と答えている場に遭遇した赤の他人が「ちゃんと内容を話しなさい」なんて注意をするのは、おかしいのです。
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で、ですね。
仮想通貨・暗号資産の文脈で、よく、信頼という言葉が出てくるのです。
現在の法定通貨は、それそのものに価値があるというよりは、使う人が皆、それをお金として信頼しているから成り立っている。
こんな具合です。
(私は、法律も政府・国家も、それを維持する内政・外交・軍事力という裏付けもあると思いますけど。そして、そこにはかなりのコストがかかっているはずなので法定通貨は印刷代だけがコストじゃないと思ってますけど。)
言葉における信頼は、そのフレーズそのものが内容を正しく表しているというよりは、そのフレーズを使う人が皆、そのフレーズをそういう意味だと理解し相手もそのように理解していると信頼しているから成り立っている
ということは言えませんかね?
先ほどの「以上でも以下でもない」の話ですね。
ということは、仮想通貨においても信頼があればそこに価値があるという話になるのですが
その信頼の元が、ドルという資産がある事、なんじゃないのでしょうか?
— ton (@ton960) 2019年9月6日
テザー社共同創業者「USDTの完全な裏付け資産の有無は重要ではない」 | ビットコインの最新情報 BTCN|ビットコインニュース https://t.co/YW9hbVzjm5
これはどうでしょうね。
テザーというのはUSDTという仮想通貨を発行している会社です。
テザー社は米ドルを保有しており、その分だけ仮想通貨USDTを発行している、はずなのです。ですが、昔から「本当に発行数量分の米ドルを保有しているのか?」という疑惑が晴れません。
そこでこのニュースが出てきて、うーん、となりました。
仮想通貨USDTはいつでもUSDと変えられるはずだという共通認識があるから価値を維持できるはずで、それがなければただの電子情報です。
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というわけで、信頼の裏付けというものは必要なんじゃないかなぁ?という話です。
最後の最後に、話を「言葉」に戻します。
タイトルにある「そうゆう話」という単語、私はこれに相当な違和感を覚えました。
気にしている方は私だけではないようで、スタンスも「正しいのは「そういう」という表現、公の場で使うのは好ましくない」という感じです、
言葉における信頼の裏付けは、利用者とその利用頻度によるものだと思われます。
素直に考えると、世代が循環するにつれそうゆう表現が増えるのだと考えられますが、超高齢社会においてはそういう表現が幅を効かせ続けるのかもしれません。
一方で、動画サイトなど、世代を飛び越えて目にする耳にする情報源が増えています。なので、違和感を覚えていた人が順応していくというシナリオも十分に考えられます。
私は、変化を怖がって自分の感覚が常識だと思うのは固定観念じゃないかなぁ?と思うのですね。
どちらの表現も受け入れつつ、そして誤字誤用はそれと認識できる自分でありつつ、適切な表現を使える人になりたいなぁと思うのです。
お年寄りも、かっこいい人を見ればイケメンというでしょ?
今時、ハンサムとか美男子なんて言いませんよね?
ではでは。
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