戦国時代、信長の野望とか、あの辺りが好きでして。
そういう話を見聞きしていると、一つ気づくことがあったんです。
「すごい業績を出した人の周りには優秀な人がいる」
あの時代、裏切りとかが怖いですから、これぞという人には自分の血縁者を嫁がせたりして親せきになっていったんだとは思います。
一方で、そのように「優秀な人を取り込んできた」ばかりでもないように思います。
「凄い業績を出した人の周りにいた人がチャンスをもらった」という点もあるように思うのです。
自分の見方とは言い切れない人を味方に引き入れるだけではなく、裏切らない誰かよく知る忠誠心が高い人に仕事を任せたらチャンスをものにして「立場が人を作った」という理屈です。
豊臣秀吉の弟さんは、同じく農民出身でありながら大変優秀な方だったようです。
才能があったのはもちろんでしょうが、お兄さんが豊臣秀吉でなければ歴史に名を残すことはなかったでしょう。
なので、優秀な人というのは、本人の才能や努力だけで世の中に認められるわけではなさそうなぁと思うのです。
----------------(‘ω’ っ )3
一般にジニ係数が大きい組織は経済成長が遅いとOECDも行っています。この場合テニス界においての健全な競争が阻害される恐れがあり
— ton960 (@ton960) 2020年6月26日
テニス界、超格差の悩み 大坂選手の年収40億円:日本経済新聞 https://t.co/jZ8SWE1Hi9
長い目で見た場合の、興行としてのテニスの衰退が懸念されます。
— ton960 (@ton960) 2020年6月26日
圧倒的な強者がいても良いですが、経済格差でその差が開くというのも見ている側からすると何とも言えません。
ジャイアントキリングを見たいだけではありませんが、実力が拮抗している中で結末がわからない試合を見たいな、と。
また、純粋に才能がある人がつぶれるだろうなというのが素人の私見です。
— ton960 (@ton960) 2020年6月26日
若くて才能がある人が格差社会で身を立てていくのは相当な実力と運が必要です。才能を殺す興行が長い目で発展するとは思えません。
格差縮小の手立てが必要です。
こちらは戦国武将からテーマを変えて、テニスの話です。
良く知りませんが、おそらく小さいころからの練習とか大事だと思うのです。
お金持ちが好むスポーツとしてテニスとゴルフは挙げられており、これは私見というだけでなく巷の本にも「お金持ちと知り合いたければゴルフ、テニスをやれ」なんて書いてあるものもあります。
(この本自体が良い本・お勧めできる本かというと、ソコまでではありません)
ということは、それなりに先立つものが必要なんじゃないかなぁ?と想像するわけです。
ツイッターで投稿した話ですとテニス選手の話ですので、移動や体のケアなど私たちの想像より多くのお金が必要なはずです。
金銭的な面で苦労しており才能を十分に生かせなかった人っているんじゃないかなぁ?
「あの選手は金銭面で苦労したけれど成績を残した」という例外を出して一般論とするのは簡単です。そういう選手は「逆に金銭的な苦労が無ければもっと成績を残していた」かもしれないと思うのです。
テニス界の観点から考えるのであれば、選手はテニスのウデを磨くことに注力してくれればそれでよく、より質の高いプレイを競い合わせる事こそが本分だと思うのです。
それが正しいのであれば、選手に「金銭面で苦労しているけれどそれを乗り越えた素晴らしい選手」というストーリーを付加するのは本質的なものではありません。
----------------(‘ω’ っ )3
話を戦国時代に戻すと、余程の天才はすごい業績を出した人の耳にも届いて召し抱えられたことでしょう。しかし多くの天才になったかもしれない人は、農民で、ヒーヒー暮らしていたと思うのです。
----------------(‘ω’ っ )3
少し前の話ですが、ノーベル経済学賞の話。
ざっくり検索したのですが、これぞと思うものが無かったので軽く要約します。
貧困を解決するのに何が大事なのは教育と公衆衛生である、ということを実証研究された方が2019年、ノーベル経済学賞を取りました。
これって、そのような地域に生まれたというだけで教育の機会に恵まれることなく、天才になったかもしれない人にふさわしい機会が与えられていないということだと思われます。
----------------(‘ω’ っ )3
結果平等を唱えるわけではありません。
実現可能だとも考えていません。
しかし、機会はできるだけ平等に与えられた方が、天才になるかもしれない人たちを天才に近づけ社会全体としてより豊かになる事ができると思うのです。
それをしないのはもったいない。
もちろん、すでに富を持つ人は自分に見返りもないのにまとまった資産の再配分に対して首を縦に振るとも思えません。
上記は日本で教育の機会を奪われた人に機会を与える、という活動をしているNPO法人のHPです。
私も含め、チャンスを与えられているというのは運が良かっただけなのだろうなと感じざるを得ません。
そして、タイトル「身近にいたかもしれない天才の話」これは教育には時間的制限がある事を示します。
子供時代に教育の機会を奪われるというのは、その人にとっても社会にとっても損失です。
今は戦国時代ではないので、目に留まらなければ引き立てられないということだけでもないと思うのです。(社会・仕事は人間関係であるという点とは別です。その前段階の部分です)
どうにかならないものかなぁ?
教育を受けられない人に未来の天才が含まれていたのなら、人類の損失なのかもしれないんですが。
ではでは。
?