かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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ESGを数値化することについて(006)~Eの測定理念~

今回はEについて思うところをつらつらと書いていきたいと思います。

 

アンケート調査法のデメリットと解決策はやはりやる気がわかないのですよ。それはおそらく統計学の基礎として研究しつくされた論点であるし、おそらく考えるより調べる方が早い。

まずは自分の仮説を立てつつ、勉強して調べて仮説を検証して、止揚していくというのがこの「ESGの数値化」の基本方針です。だからやってて面白い。

突っ込みは根拠を添えていただけるのであればと大歓迎です。

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さて、Eです。エンバイロンメント、環境です。Sが社会の中の法人というコーポレートシチズンシップなのであれば、Eは自然の中の法人という概念と考えてよいと思われます。

 

ここでエピソードを一つ。

私が住んでいるマンションに足の悪いお爺さんが住んでいるんです。個人的な交流は一切ないのですが、あいさつはしますしエレベーターに私が先に乗り込めば待ってるくらい、そんな程度の関係。ある時おじいさんがゴミを出しに来ていたので、「足が悪いのに大変だろう」と「私が集積所にもっていきましょうか?」と尋ねると丁重に断られました。それは私にとってすごく尊敬できる事だったのです。

普段からそのお爺さんが歩行訓練というか、足が悪い中でも杖をつきつつ、ゆっくりではあっても自分の足で散歩(?)をし、少しでも自分のコントロールできる範囲を広げようとしている努力を見ていたからです。できれば自分でできることは自分で。そういう制御可能な部分を増やそうという意気込みを感じたからです。

人は誰でも年を取ります。老化は今まであって当然・できて当然であったことができなくなる状態です。少年や青年がトレーニングを行いできることを増やしていくことは実感しやすい喜びでしょうが、老人がトレーニングを行いできない事が増える割合を少しでも減らすことにどこまで実感が伴うでしょうか?(0が10になることを認識するのは簡単です。それは嬉しい事です。しかし、放っておけばー10だったところを自分の行動でー5に抑えることができた事を認識でき、そこに価値と喜びを見出せることは難しいと思うのです。)人間としての理性と継続する力があって初めて老化によるアンコントローラブルな領域の蚕食を減らすことができ、それに対して成果を感じることができるわけです。

三日坊主は多くの場合結果を得られません。世の中の大体の事は時間がかかります。猫や豚が小判や真珠を見ても人間と同じ価値を見出すことはできません。良いかどうかはともかくその価値を認識できないからです。

この足の悪いお爺さんは意志の力で歩行訓練を継続し、理性があるからその効果を把握でき納得しそしておそらく喜びを感じることができているのだと思われます。喜びを得るにも知性が必要なのです。

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「話の内容は分かるが、Eの話との関連がわからん」と思われる方多いと思われます。

私の中では繋がっている話ですので、それを説明します。

 

先述の通り、私は、Eは自然の中の法人という観点の概念だと考えています。

今でこそ、人間が環境を破壊しているという構図が常識となっていますが、昔の人間は環境と戦ってきたのですよね。厳しく自分達ではどうにもならないアンコントローラブルな存在である自然をどうにかしてきた。それで自分たちが繁栄してきた。

温暖化なんてメディアでは叫ばれていて、おそらく本当に気温が上がっているのでしょうが、それを人間が元凶と断定するのは根拠が十分なのか、私は分かっていないのですね。もっと言えば「われわれ人間が環境を破壊して地球が泣いている!」なんて考えるのは「おこがましい」と思うのです。地球なんて氷期間氷期の間を行ったり来たりしてるわけで、気温がズンドコ変化しようがそれは自然の摂理というものだと思うのです。だから殊に温暖化に関し「人間がやってしまった、我々が行動を変えなければ」と考えるのは人間の力を過剰に見誤っており、むしろ「自然が変わっているのだからそれに適応しないといけない。我々が自然様の中で生き続けていけるように」と、適応を心がけるのが本当なのではないかと。

では、なぜ「人間が環境を自然を壊してしまった、我々が行動を変えなければ」というフレーズが耳に心地よく響きそうすることが常識のようになっているのか?

マーケティングの道具だからと私は理解しています。

「自然に優しい」「自分にできることから」というような耳障りの良い言葉を使って、あるいは適切な、そしてあるいはぼったくり商品が市場に流通しているように思えます。政策批判になりますがレジ袋の有料化なんて環境を考えた国策としては愚策で、どう考えてもそれを採用するのは不合理です。もっと合理的な何らかの意図と意思がある、と考えるのが自然でしょう。そしておそらく自然環境に配慮すべきは大きな影響を及ぼしているところからのはず(パレートの法則)で、それが日本国のレジ袋であるはずがないと思われます。

 

足が不自由な老人は、自らの意思と理性で、認識するのが難しいはずの「悪化の減少」を認識できた。

ESGを数値化するにおいて、それを定義づける人間は、おそらく変わっていっているのであろう自然の変化に対応した企業活動を、自らの知性によって認識しなければならないのです。マーケティングの道具として派手に宣伝されている活動に惑わされるのではなく、その活動が果たして自然環境の変化に適応することにつながっているのか?という観点に着目するのが本筋だと考えます。

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きっとどこかの団体が「ESGとはこういうものじゃ」と定義づけしているはずで、それはまだ調べていません。私の2021/09/12現在におけるEの測定理念としては以上のものになるのです。

 

Eの測定理念としては

・人間が環境を破壊しているというのはおこがましい

・人間が豊かに生きていくために、変化していく自然に適応するための活動と捉える

・企業は多くの場合、大企業病・官僚化がすすみ制度などは固定化され、環境の変化についていき辛くなる

・市場環境への適応はまだましで、社会環境の変化に企業が対応するという視点がある企業はおそらく少ない。それが自然環境の変化に企業が対応するという視点がある企業はおそらくもっと少ない

・市場環境への適応は経営目標を立て経営課題を抽出して解決すべき問題。社会環境の適応はESGにおけるSの問題。

マーケティングの道具とは一線を画す、、、ハズ

 

だから、例えばパンを作っている企業が「温暖化で原材料の供給が不安定なんだよね」という事例で考えます。温暖化が今後続くかどうかを精査し、続くと判断するのであれば今後原材料を確保するために供給先を変えるのもいいでしょう。まだ小麦の生産が非効率なところにその生産技術を広めて安定供給先の確保を行っているのであれば、私は素晴らしいESGのEの活動だと思うのです。

 

一方、マーケティングの道具とは一線を画すとは書きました。しかし、何らかの形式でESGを数値化したとして、それは利用者に使ってもらえないと意味がありません。なので、おそらく現実的には「マーケティングの道具としてのE」に関しても考慮せざるを得ないという結論に行きつくと思われます。(利用者が誰かというのはまた別の話)

 

ではでは。

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