かんがえる、かがんでいる人

考えたことをまとめます。

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働かないふたりと水戸黄門と安心感

働かないふたり という漫画があります。

Amazonのアンリミテッドで読めるので、ちょっと読んでみたんです。

なかなか面白いことに気づいたので記事にしておきたいと思います。

 

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この漫画は、ニートの兄妹が主人公です。

毎日くだらないことをして遊んでいます。

はたから見ているとほのぼのします。

 

お隣には、OLさんが住んでいます。キャリアウーマンです。

寝室から主人公二人の部屋がよく見えるのですね。

彼らを見るともなしに見ていると、なんだかとってもリラックスするのです。

 

このOLさんは、そこそこ忙しい会社で働いているらしく、彼女は不眠症気味でした。

私も経験がありますが、遅くまで張り詰めた仕事をしていると神経が高ぶったままで寝つきが悪くなるんです。

 

でも、この兄妹に会ってその問題は解消されました。

 

毎日毎日、同じことのように思える何気ない日常を垣間見せてくれる二人が、彼女に安心感を与えてくれたんです。

 

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昔、私は何かの懸賞に応募しました。

論文とまではいかないのですが、吉本新喜劇のようなわかりきっているベタなギャグについてのエッセイです。

 

私が書いた内容は

小さな子供はお気に入りのお話を持っている。彼ら彼女らは毎日毎日飽きもせずそれの読み聞かせをせがむ。内容もオチも知っているのにも関わらず、である。この理由に関して、小さい子にとって世界が変化に満ち溢れていることが理由だ、という話を聞いたことがある。変化は刺激を与えるが、それが過剰であれば同時に疲弊をもたらす。経験の少ない子供たちにとって大人には日常であったとしても世界は驚きに満ち溢れた空間であり、それは刺激と学習をもたらすと同時に安定を欲する。その一つの表れが、お気に入りの物語への固執である。彼ら彼女らは、自分が知っているように話が進むことで安堵とともに眠りに落ちる。

現代は変化の時代だといわれる。技術の進歩は目覚ましく、その分野の専門家であっても常に情報の更新を怠れば先日までの同僚に後塵を拝することは少なくない。現代では大人も大きな変化にさらされ続けているのである。そしておそらく、疲弊しているのだ。

ベタなギャグは繰り返し・使いまわしなのだから、一見、技術が低いように思える。

しかし、そこには安心感がある。くるぞくるぞ、という期待と、ほーらきた、という牧歌的な笑いがある。

現代の大人に必要なものは、瞬間的に当意即妙な受け答えをする漫才よりも、むしろ、いつものベタなギャグなのかもしれない。

 というものです。

それなりにそれなりだったようで。それなりの良いことがありました。

 

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働かないふたりのお隣さんも、きっと、日常に疲れていたのでしょう。

同じではないのだけれど、同じようなベタな日常を繰り広げる隣人に安心し、眠れるようになったのかもしれません。

 

この安堵感は、高齢者にも必要なようです。

水戸黄門などにみられる時代劇が、上記の働かないふたりの主人公の日常や小さい子のお気に入りのお話に当たるように思います。

 

高齢者の場合は、純粋に、変化に対して体力・精神力が付いていかないように思うのですね。

だから、新しい刺激(知識の習得など)にギブアップした場合は、「いつもの」日常が欲しい。それが時代劇なのだと思います。

 

そう考えると、ベタな物語はなくなりそうにありません。

 

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話を少し発展させて、ベタな話を作る創造性についての話を書きます。

 

時代劇って、悪くいってしまえばワンパターンです。

そう考えると、新しい話を作るよりも作りやすいのではないか?創造性が低いのではないか?と考える人が多いと思います。

実際、そのように作られる話もあるでしょう。

一方で、そのような制限がかかっているからこそ、その制限の上に成立した面白い話はとても創造性が高いと思うのです。

 

俳句ってありますよね。

5・7・5で季語を入れて作る日本のポエムです。

あれも、言葉の並びをランダムに作ってしまえば、数うちゃ当たる方式でいいものができてしまいそうです。

バベルの図書館的な話です。

ですが、そんな手順で作られたわけでない、今も語り継がれている昔の俳句は、上記の制限の上に成立した非常に高度な文学作品だと思うのです。

制限があるから、傑作が生まれるんじゃないかなぁ?と。

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今後も、世界の変化と少子高齢化が加速し、ベタなものが求められ作られ続けていくのであれば、私たちは傑作が生まれる瞬間を目の当たりにするのかもしれません。

 

ではでは。

 

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