海原雄山ってご存じですかね?
非常に鋭敏な味覚と豊富な知識を持ち、その才能は(漫画の世界で)多くの人に認められた著名な食通です。
また、陶芸家や書家でもあり、芸術一般にたぐいまれなセンスを持つものとして描かれています。
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気に食わない料理が出されれば、ごちそうになっている途中であっても女将を呼びつけて作り直させます。
なにこれ、怖い。
そんな彼は、食事を楽しむだけでは飽き足らず、自分でも美食俱楽部という料亭を運営し、自身が納得のいくものを作り続けています。
マニアックですね。
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私は松屋のカレー、結構なものだと思う派です。
500円で大盛カレーを食べられます。味は人によって好みがあるでしょうが、スパイスが効いていておいしいなぁと思います。
掃除が不十分だとか、接客態度がだめだとか、そんなところから始まり大いにケチをつけるのでしょうか?
そうなのであれば、お門違いなんじゃないかなぁ?と。
松屋はそういうところでは、ないからです。
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一流の人は、95点と96点の差を鋭敏に察知します。
私からすると、どちらもすごいなぁと思うレベルの違いを明確に説得力を持ってつけることができるのでしょう。
だから、千利休のように、あの人が言うからコレはアレより良い、という物差し・基準として扱われます。
本人が、そう扱われたいのかどうかはともかく、そう扱われるだけの感覚と説得力があるのは素晴らしいことだと思います。
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一方で、一つ150円のカップ麺で「おいしいなぁ」と楽しめるのも一つの能力だと思うわけです。
以前、3000円を超えるカレーを食べたことがあります。調べたら当時住んでいたところの近くだったので行ってきたんですね。それは私でもわかるおいしさ・レベルの違いでした。
ですが、それを食べた後でも、やっぱり、ククレカレーやボンカレーはおいしいと思うのです。
化学調味料に舌が汚染されている、とかなんとか、批判はあるかもしれないのですし、実際にオーガニックな食材を使った食事の方が健康に良いのでしょう。
でも、楽しめているのですね。
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インスタ映えという言葉は以前ほど聞かなくなりましたが、キラキラした食事をネットに上げる行為自体はそこまで減っているように思えません。
インスタ貧乏という言葉があるそうです。
インスタに乗せるために、高いところで食事をして、お金を使って貧乏になってしまうことです。
それに対してある人は言いました。
そうじゃなくて、おかねを使わずに楽しめる方法を学ばなくてはいけない
私はこれはこれで極端だと思うのです。
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対象がどういう性質のものか。
100点・1流を目指したものなのか、それとも、お小遣いで手軽に利用されることを目指したものなのか。
それを認識したうえで、その範疇の中で自然に楽しめるといいのではないかと思います。
先のインスタ貧乏さんに言うのであれば、私も「お金を使わないきれいなものを見つけられるといいですねぇ」とは思います。
同時に
「お金がないと味わえない経験もあるのだから、両方楽しめるといいですねぇ」とも思います。
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海原雄山を松屋に連れて行くと、果たしてどんなコメントをするのでしょう?
一流の料理が100点になるための評論をできるのは素晴らしいことです。
評論が評論になっているのはそれが説得力を持ち他の人に認められているからです。
でも、70点ギリギリを目指す設計の料理に、100点を目指すスタンスでコメントをするのであれば、立ち位置が間違っています。
一般人の日常食としてのコメントをするのでしょうか?
それとも、ブチ切れるのでしょうか?
下人の行方は誰も知らない。
ではでは。
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