サイクリングをしています。
続いています。
何が良いんでしょうね?性に合ったんでしょうか。
そんな中、危ないなぁと思うことがあったので書いていきます。
----------------(‘ω’ っ )
私のサイクリングは一時間強、15分かけてバイパスまで行き、それなりのスピードで30分サイクリングを楽しみ、15分かけて戻るという塩梅です。全長20㎞です。
「ははぁーん、あれだ。徒然草辺りを引用して、不測の事態が起こりやすい一般道は皆が注意するから意外と事故が起こりにくい、むしろ気を付けるべきはバイパスである、サイクリングコースである、油断大敵、そんな感じのことを書くのだな?」
それはそれで、まとまりが良い文章ですね。
そう書くという事は、違う、という事です。
----------------(‘ω’ っ )
30年以上生きてきて思うのが、一般道は危険に満ちているという事であり、最近とみに思うのが、相対的に考えても、やはり一般道は危険に満ちているという事なのです。
冒頭で危ないなぁと思ったのも一般道でした。
危なそうなところが危ない。
なぜでしょ?
----------------(‘ω’ っ )
ビジネス本なんかで良く心が目としてあるのが「すべては自分の責任にある」というものです。理想的にはそれは正しい心構えだと私も思います。
一方で、現実はそうでないからこそ、その理想論は輝くわけです。
事故においてもそうで、自分に責任があるものと、どう考えても自分でそこまで「かもしれない」運転はできない、というものはあります。
それはあんた、ダメでしょ。という行動も相手にとっては、おそらく理屈があるんです。多分。知らんけど。
心構えは心構えとしておいておいて。
現実を見据えるためには、SWOT分析同様、内的原因と外的原因に分けて考える方がよさそうです。
----------------(‘ω’ っ )
内的原因は自分の油断です。交通法規の違反です。赤信号を渡るのであればそれはそれで理屈はあるのでしょう(押しボタン式交差点を深夜のような交通量が少ない時、見通しが良い場所で厳格に守られてしまうとかえって自動車の流れを悪くします)ですが、違反するならするで、責任は取らなくてはいけません。
責任なんて取りたくないし、事故が起きたら取れないので、普通に安全運転をします。私は。
外的な原因が問題であり、今、私が認識している時点で、先人が解決できなかったという事なのでおそらく根深いものだと想像されます。人間という生き物の性質に関わるのだろうな、と。
それは例えば、自分は左側通行しているつもりでも、他者からするとど真ん中を通っていたり、大丈夫と本人だけは思っていたりと。人間は自分に甘くなる傾向はあるようです。
----------------(‘ω’ っ )
じゃぁど私はうしているのかというと、危ないところは通らない。私はそのように工夫しています。(自転車保険はMUSTです、宣伝ではなく純粋に保険です)
私がサイクリングをするのは基本朝なので、通学途中の学生に混じる事があります。
できるだけ時間をずらして、密を避けます。
感染症云々だけではなく、事故を減らすため。多くの人に会えば自分と常識が違う人に出会う確率も上がります。だから、避けます。
避けたら避けたで、ランニングやサイクリングをされている方と鉢合うこともあるので、それもなるたけ避けます。
お互い、立場が違えば相手のことはわかりません。
----------------(‘ω’ っ )
結論としてはこういう事です。
考え方や常識が同じ人同士が集まったほうが、多分イザコザは少ない。
価値観の違う者同士が、始めは衝突しつつもそれを乗り越えて新しい価値観に目覚めるのは、それが珍しいからエピソードとして成り立つんです。
継続的に繰り返しで会うからこそしっぺ返し戦略が成り立つので善良な相手を想定しても無理がないんです。
諺でも「旅の恥がかき捨て」 ってありますよね?旅先で何やってもいいと誤解している人はいるんです。
事故はいくら自分が気を付けても、他者の責任で起こり得ます。
人間だから、多かれ少なかれ油断はありますが、その傾向で分類はできるわけで。(境界線は議論の余地あり)
はっきり言いますが、常識が違う場合、別れた方がお互い気分が良いでしょう。
表題の自己の論理ですが、これまでのことをこうまとめられるかと思います。
常識が違う人、常識が同じでもそれを実行できる人とできない人が混在しているから。
わざわざ、事件に巻き込まれに行く必要はありません。後方確認せずに急に曲がるような人は、そういう人たち同士で集まって欲しいのです。
結果、事故が増えても私は知りません。後方確認しないのが悪いのです。
こっちこないで。
ではでは。
?