皆さん、よくおっしゃいます。
「時間が一番貴重な資源なんだよ」
私もそう思います。
ですが、本当に深く考えて、その言葉を口にしてますでしょうか?
ちょっと考えてみました。
時間についての確認はいらないと思います。
では、資源とは何でしょう?
何らかの活動の元、付加価値をつける源泉、というイメージでよいでしょうか。
物質とは限りませんし、議論の対象になる場合、何らかのアウトプットを意識したインプットの一種として使われているようだからです。
そう考えると
時間は、ここでいう資源です。時間があるから働いて付加価値をつけて給料を稼ぐことができます。時間があるから行動することができ、休養したり・楽しんだりする事ができます。
〉「時間が一番貴重な資源なんだよ」
〉
では、「貴重」という価値はどうやって決まるのでしょうか?
ダイヤモンドは貴重ですが、それはなぜでしょうか?
それ自体に欲しいと思われる価値があり、数が少ない(有限、を包括する)という二つの性質があると考えています。
数が多い少ない、という概念は相対的なものです。
何かと比べるから、多い、少ないといえます。
例えば、社会人の趣味の時間は大学生のそれに比べて、多分、少ない。
資源を大雑把に分けると、ヒト、モノ、カネ、そして時間になるかと思います。
相対的にカネが少ない大学生が、時間をカネのために消費するのは、合理的な判断です。
時間が最も貴重な資源であるとは、万人に、いつでも当てはまるわけでは無いようです。
では、人脈も生活に必要なものもお金も持っている人について考えてみます。
ここで経済学と経営学の確認です。
経済学は、希少資源の最適配分をもって、効用の最大化を図る論理だと理解しています。
一方で
経営学は、経済学の理論に立脚しつつも、組織体(社会)で実際に起こる具体的な出来事に着目し、その理想と現実のズレから生じる隙間を埋める論理だと理解しています。
上記を前提にすると、資源の配分は
経済学からすると静的な(=現状の)資源の価値から行われ、
経営学からすると動的な(=将来の価値の増減を踏まえた)資源の価値から行われる
と考えます。
換言します。
より、実情に近い考えからすると、資源の配分は「将来への投資」という観点があるように思えます。
(ここでは経営学の方が実学として生活に応用されやすいと考えていますが
学問としての経済学を貶めているわけでは、もちろんありません。)
ということは、
資源としての時間は将来に向けての投資であり、投下された資源としての時間は、後のアウトプットにどの程度貢献したのか、で価値が測られると考えられます。
つまり
のんべんだらりと過ごしている時間であっても、それが後の何かの糧になるのであれば、それは有意義な時間の過ごし方であったといえます。過ごした時間の活かし方が投下した資源としての時間の価値を変えるという結論になります。
>他人と過去は変えられないけれど、自分と未来は変えられる。
>
だけでなく、これからの行動次第で過去の時間を活かすことができるのです。
ごくごく、当たり前の結論です。
では、なぜ、今も昔も判で押したように「時間が一番貴重な資源なんだよ」と言われ続けるのでしょうか?
しかも多くの場合、年配者から若者への助言として。
「若さ」と「老い」、「先のことは誰にもわからない」、「今が一番若い」という概念が関連してくるように思えます。
未来の行動で、無駄な時間だと思われていた時間を、意義のあるものに変えられる可能性がある、という結論でした。しかし、それは未来があってのことです。投下した資源はなるべく早く回収するのに越したことはありません。
誰も先のことはわからないのです。
だから、回収しやすい投資を行い、早期に回収する必要があります。
老いは平等であり、それは未来が少なくなることを意味します。投下資本の回収可能性の低下を意味します。
若いうちから、意義のあることをやることが大切なようです。
しかし、先ほど確認したように、若い時、時間は、他の資源獲得のために消費されがちです。
使い方に後悔することが多い、そして取り返すことは難しい。
その意味で、時間が最も貴重な資源だといわれ続けているのだろうなぁ、と思います。
では、意義のある事とはなにか。
何に意義を見出すかは人によります。
それを見つけるためにも、いろいろやることが大切なのだと思います。
そして、いつであっても、今が一番若いのだと思います。
さくせん
いろいろやろうぜ